福定町(ふくさだちょう)は鳥取県境港市にある町。
地理
弓浜半島の北部に位置し、東は美保湾に面する[4]。
歴史
尼子経久の末裔とされる又右ェ門秀久がこの地に来住し開拓に従事する。秀久は尼子の姓が発覚するのを恐れてやがて“佐近”と名乗り、後また“佐古”と改めた。[5]
年表
苗字(株)
幕末期の庄屋佐近史兵衛忠仁は、天保14年(1843年)に『福定村中惣系図略記』というものを書き残している[8]。それによれば、福定村の住民はおよそ5つの株から分かれて分家をつくっているという[8]。佐古株、足立株、川田株、竹安株、安倍株、佐々木株等がある。足立家、安倍家はもと中野村出身とされている。[9]
- 系譜
尼子経久 …… 又右ェ門秀久 — 又五郎秀高 — 長兵衛 — 長兵衛
- 改正苗字“佐近” 元祖佐古又右ェ門正義は本家の4代目佐古長兵衛の二男
又右ェ門正義 — 平吉正信 — 弥三八正知 — 四兵衛正忠 — 四兵衛忠孝 — 林兵衛忠義 — 史兵衛忠仁 — 廉兵衛忠政 — 慶基 — 正慶 — 滋
福定児童館(旧福定会館)
昭和37年(1962年)から昭和38年(1963年)にかけての豪雪により、旧福定会館は倒壊という悲運に見舞われ、福定町は討議の場を失ってしまった。昭和39年(1964年)再建の機運が高まり自治会総会で協議がなされ、次の諸氏を委員、相談役に選出し、再建の大事業に着手した。
- 委員 - 安倍由一郎、安倍敬市、足立誠、生住正信、石橋末夫、大田盛、岡崎伊太郎、景山敬、川田俊弘、北山虎栄、北山茂、小灘善造、高砂宗市、田口卓三、洋谷一郎、松本美恵子、宮脇まさ子
委員会は生住正信委員長、川田俊弘事務局長を選出し一致団結して涙ぐましい努力によって再建の難事業に当った。
昭和40年(1965年)7月25日、竣工。竣工後は大衆討議の場としてその機能を発揮し、現在の福定町会館が市予算で完成後は、福定児童館として新しい児童育成の場となっている。
戸口
福定にはいつ頃からひとが住むようになったのか、集落がいつ頃できたのかははっきりしたことはわからないが1565年に亀井氏と杉原氏との戦がこの弓浜北門で戦われ、その戦火で焼けたとされる建造物(大将軍社、祇園社、白雲山高妙寺、塔婆堂など)が福定には多くある。これらにより戦国時代には相当の集落があり、多くの住民が住んでいたろうと推測されている[10]。
世帯数と人口
2022年(令和4年)7月31日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
小・中学校の学区
市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[11]。
交通
鉄道
町内に鉄道駅はない。
バス
道路
施設
出身人物
政治家
実業家
教育者、学者
文化人
医師
- 足立作郎 - 足立実の実弟 医学博士 倉吉市で産婦人科を開業する 名医として名が高かった[16]
- 佐古仙太郎 - 佐古氏の流れを汲む佐香氏の分家で元祖平八郎から6代目に当たる 京都に出て医学を学び明治初年東伯郡橋津で漢方医を開業した 後年米子の車尾に開業し車尾診療所の基をなした[17]
その他
- 田口章太(記者) - 佐近益栄の導きで報知新聞に入社し編集部次長、横浜支局長等歴任
ゆかりある人物
- 池波正太郎(作家) - 戦時中、美保航空隊の一兵士として福定町の佐々木虎雄家に隊外分宿していた。任務は海軍801航空隊司令部の電話交換室の室長だった。佐々木虎雄とは親交があり、別れにあたって壺を贈っている。30数年後再びこの地を訪れた池波は佐々木家を訪ねたが、虎雄はすでに亡くなっていた。[18]
資料
旧家・長兵衛
- 宇多天皇ノ後胤 佐々木源三秀義五男、五郎左ェ門義清ノ裔(子孫)[19]、尼子伊予守経久ノ流ニシテ又右ェ門秀久ト云シガ天文ノ後此ノ地ニ来リ隠居シテ田畑開墾セシ処其ノ姓ノ顕ルヲイミテ佐々木氏ノ子孫ト云ヘル意ニシテ佐近氏ト改ム其ノ子又五郎秀高又改メテ佐古ト号シ専ラ力ヲ農耕ニ励ミ爾来 村長相勤メ七代権右衛門迄相伝ワリ当主長兵衛ニ至テ十代ナリ近世マデ系譜古文書等多ク所蔵仕リ候、いつとなく紛失仕リ候 今有ル所ノ系図ハ秀久ヨリ後ノ事記シテ御座候 佐古文書品々取リ失ヒ候得共 右言伝ニ申候、就中、又五郎ノ男長兵衛、其ノ子長兵衛家続仕同又右ェ門 別家仕リ其流格別多シ同七兵ェ 八郎兵衛等別家仕候 今村中ニ佐古ト申スハ右ノ裔ニ御座候 右ノ通リ取調ベ書上仕リ候処相違無御座候
- 口会見郡福定村
- 文久弐年戌六月
参考文献
- 『境港市史』
- 『福定町誌まがりまつ』(企画編集-福定自治会1990年)
関連項目
脚注
- ^ a b “令和4年度月別住民基本台帳登録数”. 境港市 (2021年7月31日). 2022年8月15日閲覧。
- ^ “郵便番号”. 日本郵便. 2022年8月15日閲覧。
- ^ “市外局番の一覧”. 総務省. 2022年8月15日閲覧。
- ^ a b 『角川日本地名大辞典 31鳥取県』659頁
- ^ 『福定町誌まがりまつ』7頁に「尼子秀久は福定にのがれて来て住み着いた。佐古の元祖である佐古又右ェ門秀久がそれである。秀久は尼子の姓が発覚するのを恐れて、やがて“佐近”と名乗り、後また“佐古”と改めた。尼子は佐々木氏であるからである。秀久が福定に来たのは天正の後というから、天正の終り頃(1590)であったと考えられる。」とある
- ^ a b c 『福定町誌まがりまつ』189頁
- ^ a b c d e 『福定町誌まがりまつ』190頁
- ^ a b 『福定町誌まがりまつ』88頁
- ^ 『福定町誌まがりまつ』 87-98
- ^ a b 『福定町誌まがりまつ』3頁
- ^ “境港市立小中学校児童、生徒の学校指定に関する規則”. 境港市. 2022年8月15日閲覧。
- ^ 『福定町誌まがりまつ』 153-154頁
- ^ 『福定町誌まがりまつ』 149頁
- ^ 『福定町誌まがりまつ』 140頁
- ^ 『福定町誌まがりまつ』 139頁
- ^ 『福定町誌まがりまつ』 147頁
- ^ 『福定町誌まがりまつ』 146頁
- ^ 『福定町誌まがりまつ』 157頁
- ^ 史実では、尼子氏は佐々木五郎義清の子孫ではなく、その兄にあたる佐々木太郎定綱の子孫で京極氏の支流にあたる。
外部リンク