石野博信
石野 博信(いしの ひろのぶ、1933年 - )は、日本の考古学者。奈良県立橿原考古学研究所研究嘱託、兵庫県立考古博物館名誉館長。主として古墳時代を研究領域としており、とくに纒向遺跡の発掘調査に携わったことで知られる。 経歴
1933年、宮城県牡鹿郡渡波町(現・石巻市)で生まれた。宮城県石巻高等学校を経て、関西学院大学文学部に入学し、考古学を専攻。関西大学大学院に進み、修了。
大学院修了後、兵庫県教育委員会に勤務して文化財の調査と研究にあたった。のち、奈良県立橿原考古学研究所所員に転じた。同研究所では、1971年より関川尚功とともに奈良県桜井市の纒向遺跡の発掘調査に携わった。纒向遺跡出土土師器の分類によって纒向編年を行い、また、外部からもたらされた大量の土器の存在から纒向遺跡を3世紀の都市的な遺跡であることを明らかにした[1]。1985年、『古墳文化出現期の研究』を関西大学に提出して文学博士の学位を取得[2]。後に、橿原考古学研究所研究部長、副所長兼附属博物館館長を務めた。退任後、奈良県立橿原考古学研究所研究嘱託。 兵庫県立考古博物館初代館長に就任し、退任後兵庫県立考古博物館名誉館長。徳島文理大学文学部教授および香芝市二上山博物館館長。 委員・役員ほか各地方公共団体における文化財関係委員を務めている。 研究内容・業績専門は日本考古学で古墳時代。前方後円墳にかえて「長突円墳」の用語を使用しており[3]、この墳形は、3世紀中葉に大王墓として採用されて6世紀末までつづくが、継体朝における反乱の将であった筑紫国造磐井も長突円墳(前方後円墳)を造営していたことから「前方後円墳体制」は精神的紐帯に過ぎず、祭祀の内容もまた大きく変質していったと唱えている[4]。また、寺沢薫の唱えた「纒向型前方後円墳」については、関東地方以西においては邪馬台国の女王卑弥呼の登場した2世紀末葉の段階から、その拡散の可能性が考えられるとしている[5]。
兵庫県内では加茂遺跡(川西市)、芦屋市会下山遺跡(芦屋市)、田能遺跡(尼崎市)、奈良県内では纒向遺跡のほか、藤ノ木古墳(斑鳩町)、太安万侶墓(奈良市)などの発掘調査に携わった。 著作
外部リンク
脚注
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