網干善教
網干 善教(あぼし よしのり、1927年9月29日 - 2006年7月29日)は、日本の考古学者、関西大学名誉教授。専門は考古学、古代史、仏教史。明日香村名誉村民[1]。 経歴
1927年、奈良県高市郡飛鳥村(現・明日香村)で生まれた。3歳のとき、父の網干順三が唯称寺の住職・順誠となり、一家で移り住んだ。唯称寺は石舞台古墳のすぐ下にある浄土宗の寺で、1933年から始まった第一次石舞台発掘調査に身近に接して考古学に関心を持つようになった。 旧制畝傍中学校(現・奈良県立畝傍高等学校)時代より、京都帝国大学考古学研究員であった末永雅雄(橿原考古学研究所初代所長、関西大学名誉教授、文化功労者、文化勲章受章者)が陣頭指揮を執る石舞台古墳の発掘調査に参加。ますます考古学に傾倒するようになり、橿原考古学研究所に通い、末永の薫陶を受けた。 中学校を卒業後、佛教専門学校(現・佛教大学)に入学。その後、末永博士が教えていた龍谷大学文学部史学科へ進学。以降、末永博士の講義を学部、大学院、その後と17年間聴き続けた。龍谷大学大学院文学研究科修了。
修了後は、関西大学助教授に就いた。奈良県立橿原研究所所員であった1972年、高松塚古墳発掘中に彩色壁画を発見。日本中に考古学ブームをもたらした。その後、末永雅雄の後任として関西大学文学部教授に昇格。1979年、学位論文『終末期古墳の研究』を関西大学に提出して文学博士号を取得[2]。在任中には、同大学博物館長も務めた。関西大学を退任後、名誉教授となった。その後は佛教大学講師などとして教鞭をとった。 2006年に死去。死去と同時に、従五位に叙された。 受賞・栄典研究内容・業績末永雅雄門下で、森浩一、伊達宗秦と共に三羽烏と呼ばれた。考古学における実証主義を何よりも重んじ、門下、現在の考古学調査の最前線で活動する研究者、調査者を多く養成、輩出した。
文化庁主導による高松塚古墳の石室解体保存に関しては、文化庁による管理体制の不備、官僚的な事後対策を糾弾し、考古学者の立場から「遺構を人為的に動かすことは、遺跡の破壊行為である」と一貫して反対の姿勢を貫いた。
日本国内での考古学調査はもとより、自身が僧籍にあったことから、インド共和国において、インド考古局(Archaeological Survey of India)との共同調査を実施、ウッタル=プラデシュ州所在の仏教遺跡、日本では祇園精舎の名で知られる、ジェータバナ ビハル(Jetavana Anathapindadasya)正式名称は祗樹給孤独園精舎(ぎじゅぎっこどくおんしょうじゃ)(サヘート)、および、近傍の都市遺跡、舎衛城、シュラーヴァスティー(マヘート)での発掘活動など、仏教考古学、北インドの考古学研究にも多大な功績を残した。 家族・親族
主要著作単著
共編著
監修
論文・報文
記念論集
参考文献
外部リンク
脚注 |