百武三郎
百武 三郎(ひゃくたけ さぶろう、1872年6月3日(明治5年4月28日)- 1963年(昭和38年)10月30日)は、日本の海軍軍人、海軍大将、侍従長。二人の弟、百武源吾は海軍大将、百武晴吉は陸軍中将。三郎・源吾は海軍史上唯一組の海軍大将兄弟である。 妻・マチ(旧姓:李家)の父は、陸軍少佐の李家頼蔵で、海軍造兵総監(後の海軍技術中将)の李家政太は叔父に当たる[1][2]。 経歴佐賀藩士、百武庭蔵の三男として生まれる。佐賀中学、攻玉社を経て、1892年、海軍兵学校(19期)を首席で卒業。少尉候補生として「松島」に乗り組み日清戦争に従軍。1894年に少尉任官。「八島」回航委員としてイギリス出張。1902年、海軍大学校(甲種3期)卒業。 その後、呉鎮守府参謀、「日進」水雷長を経て、第3艦隊参謀として日露戦争に従軍。日本海海戦を戦った。第4艦隊参謀を経て、1905年(明治38年)からドイツ、オーストリアに駐在し、1910年(明治43年)に帰国。「朝日」副長、軍務局員、「磐手」艦長、「伊勢」艤装員長、「榛名」艦長、第2艦隊参謀長などを歴任し、1917年(大正6年)、海軍少将。さらに、佐世保鎮守府参謀長、教育本部第2部長、第3戦隊司令官、鎮海要港部司令官、舞鶴要港部司令官、練習艦隊司令官、佐世保鎮守府長官、軍事参議官を経て、1928年、海軍大将となり、同年予備役編入。 第3戦隊司令官の時代に、源吾が艦長を務める「多摩」を指揮したことがある。実直な三郎と奔放な源吾の間には個人的に少々の軋轢があったが、幕僚たちの間では、息の合った兄弟の連携を賞賛する声が多かった。 1936年(昭和11年)から1944年(昭和19年)まで侍従長として昭和天皇に仕え、辞職後は1946年まで枢密顧問官であった。百武は侍従長であった鈴木貫太郎が二・二六事件で襲撃されたため選ばれた後任で、伝統的に侍従武官長を歴任する陸軍に対する牽制のために、海軍予備役大将の中から推薦された。絶大な信頼を寄せていた鈴木のリタイアに落胆した昭和天皇は「百武とはいかなる人物か?」と百武を不安視する発言をしていた。しかし問題なく侍従長を務め、第三皇女・鷹司和子はその婚姻に際し百武家に預けられ、花嫁修業を受けている。 戦後、枢密顧問官の経歴から公職追放を受けた[3]。 1951年(昭和26年)は、鈴木一(元侍従)とともに、皇居に謁見(御機嫌伺い)に伺う機会もあった[4]。 なお長男・伸安は海軍少佐(戦病死)、長女は金子繁治海軍中将へ嫁いだ。 三郎が侍従長在任中に記した『百武三郎日記』と、三郎に関連する『百武三郎関係資料』は、2014年(平成26年)に発表された『昭和天皇実録』の編纂資料として採用され、注目されている[5]。 栄典
その他ドキュメンタリー脚注出典
参考文献
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