白蟻の巣
『白蟻の巣』(しろありのす)は、三島由紀夫の戯曲。三島にとって初めて成功した3幕物の長編戯曲で、この作品により、三島の劇作家としての地歩が築かれた[1][2]。ブラジルでコーヒー農園を経営する夫婦と、その使用人夫婦の間の複雑に絡み合う奇妙な姦通関係のドラマを描いた作品。三島が初の世界一周旅行(詳細は『アポロの杯』参照)でブラジルのリンスを訪れた際に滞在した多羅間俊彦の農園で「白蟻の巣」を見たことが、『白蟻の巣』創作のヒントとなった[3]。 発表経過1955年(昭和30年)、文芸雑誌『文藝』9月号に掲載された[4]。同年10月29日に劇団青年座により俳優座劇場で初上演され、第2回(1955年度)岸田演劇賞を受賞した[5][6]。単行本は翌年の1956年(昭和31年)1月25日に新潮社より刊行された[7]。文庫版は近年まで新潮文庫『熱帯樹』に収録されていたが、現在では絶版となっている。 あらすじ中年の刈屋義郎と妙子の夫婦はブラジル・サンパウロ郊外のリンスでコーヒー農園を経営している。夫婦は日本の名門の家柄であったが、戦後財産がなくなり、ブラジル移民の刈屋家の老未亡人の籍に夫婦養子に入り、コーヒー農園を引き継いだのだった。刈屋邸には、使用人の運転手・27歳の百島健次とその新妻で20歳の啓子、農園支配人の60歳の大杉安之助、女中・きぬが住み込みで働いていた。 刈屋の妻で30歳の妙子と百島は1年前、心中未遂をしていたが、刈屋は寛大な対処で百島をそのまま運転手として使っていた。刈屋は地域の人々や農園の労働者からも、穏やかで寛大な人物として尊敬されていた。使用人とも一緒のテーブルで同じ食事をする「民主的」な園主であった。 百島の新妻・啓子は、夫が刈屋夫人(妙子)と心中未遂事件を起したことを承知で百島と結婚していた。しかしある時、夫と同じ首筋の傷を風呂上りの妙子の首にありありと見てから、はっきりと嫉妬に苦しめられはじめる。啓子はいっそのこと、もっとぎりぎりまで行ってしまえば却って気が安まると思い、夫と妙子がもう一度、心中事件を起して刈屋の怒りを買い、この邸から自分たちが追い出されて、夫と妙子が引き離された方がいいと計画をめぐらした。 そして、そのことを刈屋に相談するが、刈屋は百島と妻が再び心中を企てる可能性はないと言う。啓子は2人の邪魔をしているのは、刈屋のその寛大さだと言い、旦那様が邸を長期間留守にすれば、何もかも真裸の露わになると言った。刈屋は少し興味を覚え、啓子の提案に乗ることにし、しばらくリオ・デ・ジャネイロまで旅行をすることにした。 生きた屍のように暮している妙子は、夫の罠だと思い、留守中も刈屋の寛大さの呪縛の中にいた。しかし支配人の大杉から、リオで刈屋に女ができたという噂話を聞き、妙子は百島に接近する。しかし百島はあまり取り合わず、戯れに接吻しただけで何も起こらなかった。若妻の啓子は、「こんな小娘みたいな私の目を盗んで、たったそれだけ?」と夫を挑発し口げんかをする。その時、大杉が慌てた様子で玉蜀黍の倉庫に白蟻の大群が押し寄せてきたと知らせに来て、百島は白蟻退治に飛んでいった。 啓子から至急戻ってくるように電報を受けた刈屋が帰って来た。啓子は、「私が待っていたものが絵空事だったとわかりましたの」と言い、この邸を1人で出てゆくと言った。刈屋は、そんなことはさせないと啓子をなぐさめ、髪や胸をなではじめた。そして刈屋は、百島と妙子が心中未遂を計った納屋へ啓子を誘い、「2人が死にそこなったあの場所で、われわれの結婚式をあげよう」と一緒に納屋へ入っていった。 納屋に入っていった刈屋と啓子を見た大杉は、白蟻退治を終えて妻を探す百島に、「あなたには見る権利があります、あなたは」と言い、納屋を示すが、百島はそこへは行かずに室内に帰った。大杉は、「どうして行かないんです。そう訊くのも野暮だが。……どうして追って行って、あの人たちを殴り倒すわけにゆかないんです。そう訊くのも野暮ですがね」と言い、私がいては邪魔だろうと百島を1人にしてやったが、百島は自室のベッドへ帰った。 刈屋と啓子が納屋に行くのを3階の窓から妙子も見ていた。妙子も百島がピストルを持って納屋へ駆け出す姿を期待していた。百島は、私が苦しんだら旦那様の思う壺ですと妙子に言い、自分に旦那様の寛大さが伝染した、人をゆるすことはこんなに楽なことだったのか、そしてこんなに人間を無力にするものなのか、と言い出した。 妙子は、そんな考え方をすると刈屋になってしまうと百島に言い、また2人で心中しようと提案した。百島は啓子から、「死ねるものならもう一度死んでみろ。死の恐怖を一度味わった人は、二度と自殺なんかできないものだ」と先日言われたことを思い出し、啓子の鼻を明かしてやろうと、朝早く妙子と自動車で「望みヶ淵」の断崖へ飛び込みに向かった。 啓子は自動車の爆音で目が醒めた。広間の卓上にあった2人の遺書を見て狂乱する啓子を落着かせようと、寛大になるんだ、ゆるしてやるんだと刈屋は諭した。啓子は、あなたは人殺しだ、あなたの寛大さが2人を殺したんだ、あなたは偽善者だと刈屋を罵倒する。しかしそんな啓子に刈屋は、怒っているおまえはブラジルの太陽だ、生きているおまえと心機一転、子供をたくさん作って新しい生きた生活をしようと、啓子に結婚を申し込む。 そして、実は妻が以前から何度も別の男と心中未遂し、その都度ゆるしているうちに自分の苦しみが麻痺してしまったことを告げた。啓子は怒りを鎮め、刈屋の話を聞いているうちに、自分が新しい刈屋コーヒー農園の女主人、女王蟻になることを夢見て、朝食のときには、もう刈屋を夫のように、「あなた」と呼んだ。 外から自動車が戻ってくる音がしてきた。啓子は半狂乱になりながら刈屋に、「今度こそゆるしてはいけないわ、『どこへでも行ってしまえ』と言うのよ」と、2人を追い出すように命令した。早く、早くとせき立てられる刈屋は、「とてもそんなことはできそうもない」と、おどおどする。高まる車の音に啓子は、「怖い、怖い、死人たちが生きかえる、白蟻がかえってくる」と怯えた。刈屋は、「とてもそんなことが…」と、つぶやきながら立ちすくむ。 作品評価・研究『白蟻の巣』は三島が書いた初の長編戯曲であるが、総じて高い評価がなされている[8][6]。 福田恆存は、「三島氏の小説と同じ水準に達した作品」と高評価をし[9]、北原武夫も、「三島君はこの作品で初めて戯曲を書いたと思うんです」と述べている[10]。吉田貞司は、「小説に劣らぬ豪華なモラルの開花を見せてくれた」と評し[11]、ヘンリー・スコット・ストークスは、「この作で三島の劇作家としての地位は確立された」としている[2]。 荻久保泰幸は、〈白蟻の巣〉とは「安直な人道主義や世俗的美徳にむしばまれて真に人間的なものを喪失した状態の象徴」であり、やがてその後、世人が気づく「戦後民主主義がもたらした精神的頽廃やマルクーゼのいわゆる寛容的抑圧の象徴」でもあるとし、「戦後10年という曲がり角における反時代的考察」がなされている作品だと解説している[1]。越次倶子は、荻久保の論を敷衍し、〈白蟻の巣〉とは日本の国の象徴であり、「戦後十年にして、白蟻の巣を見てしまったところに、予見者三島の悲劇がある」と解説している[12]。 佐藤秀明は、寛容な刈屋義郎の内実の無気力と倦怠感を、執筆当時(昭和30年代)の三島の「空虚感」に裏打ちされたものとし[13]、それは『鏡子の家』の鏡子が担う「空虚な中心を形成する役割」に通じ、贅沢な社交場の〈鏡子の家〉が実は敗戦後の廃墟に通じているのと同様、刈屋邸の食堂もそうだと考察している[13]。 山中正樹は、佐藤の論を敷衍し、三島が『太陽と鉄』の中で、自身の〈言葉に蝕まれた肉体〉を、〈白蟻に蝕まれた白木の柱〉に喩えて、自身の言葉と〈特攻隊の美しい遺書〉を対比させていることを鑑みて、三島の様々な作品の〈言葉と肉体〉、〈認識と行為〉という「根本問題」に関連した主題として論究することも可能だと考察している[8]。 また作中で、刈屋義郎が〈生ける屍〉、百島健次が〈古い死んだ鼠〉など、啓子以外の人物はすでに〈死人〉と表現されていることに、「散華することができずに生き残った」三島の〈絶望と幻滅〉[14]が看取できるとし[8]、刈屋夫婦が渇望しつつも拒否されている〈太陽と大地〉の意味も、三島が、〈自分の小説はソラリスムというか、太陽崇拝というのが主人公の行動を決定する、太陽崇拝は母であり天照大神である。そこへ向っていつも最後に飛んでいくのですが、したがって、それを唆すのはいつも母的なものなんです〉と語っていたことから[15]、「三島が終生求め続けていたもの」は何だったのか、〈白蟻の巣〉とは何なのかを含め、三島が敗戦から自決に至る過程において、『白蟻の巣』の位置づけを考察する方法もあると山中は解説している[8]。 舞台公演
おもな刊行本
全集収録
脚注
参考文献
関連事項 |