橋健三
橋 健三(はし けんぞう、1861年2月11日〈万延2年1月2日〉 - 1944年〈昭和19年)12月5日〉は、日本の漢学者。開成中学校校長(第5代)。夜間中学・開成予備学校(のちに昌平中学)の校長。作家・三島由紀夫の祖父。橋倭文重の父[1][2][3][4]。 経歴1861年(万延2年1月2日)、加賀国金沢区(現・石川県金沢市)大豆田町で、加賀藩士の父・瀬川朝治と母・ソトの間に、二男として生まれる[1][2][5]。幼少より漢学者・橋健堂(加賀藩学問所「壮猶館」教授)に学んだ[1][2]。 1873年(明治6年)12月7日、12歳の時に、学才を見込まれて健堂の三女・こうの婿養子となり、橋健三となる[1][2][5]。14、5歳から、健堂や橋一巴(健堂の父)の代理で、藩主・前田直行に漢学の講義をしたほどの秀才であった[1][2]。その後、健堂から漢学塾「集学所」を受け継ぎ、教授となった[1]。 1884年(明治17年)2月6日、こうとの間に、長男の健行を儲ける[1][5]。やがて、廃藩置県により覚束なくなっていた「集学所」をたたみ、妻子を連れて上京した健三は、東京市小石川区指ヶ谷町92番地(現・東京都文京区白山)に居住し学塾を開いた[1][4]。 1888年(明治21年)、佐野鼎と養父・健堂が親しかった縁で共立学校(のちの開成中学校)に招かれた[1][2]。健三は漢文教諭として漢文と倫理を教え、幹事に就任する[2]。妻・こうの死亡により、当時29歳の健三は1890年(明治23年)2月24日に、健堂の五女で16歳のトミ(こうの妹)を後妻とする[1]。トミとの間には、雪子、正男、健雄、行蔵、倭文重、重子の三男三女を儲けた[1][2][5]。 1894年(明治27年)、学校の共同設立者に加わった健三は、1900年(明治33年)、田辺新之助を第4代校長に第二開成中学校が神奈川県逗子町に開校された際、同校の幹事となる[6]。1903年(明治36年)には、開成中学校に日本初の夜間中学・開成予備学校が田辺新之助により併設される(同校はのちの1936年(昭和11年)に校名を昌平中学と改称)。 1910年(明治43年)、第二開成中学校の分離独立に際して、開成中学校の第5代校長に就任する[1][注釈 1]。漢文の授業では、教科書として『四書五経』ではなく『蒙求』を使用した[2]。『蒙求』は養父の健堂も採用していた[1][注釈 2] 1915年(大正4年)、学校の移転拡張を図るため、学園組織を財団法人とし理事となった[2]。当時の寄付行為第5条には、3校主(健三、石田羊一郎、太田澄三郎)が学校の動産及び不動産の全部を寄付して之を財団法人の財産とすることが謳われ、「この3校主の勇気決断は、この学校の出身者の特に肝に銘記しなければならないことである」と学園史に記されている[7][2]。 多年の功績により、健三は1923年(大正12年)2月、勲六等に叙せられ、瑞宝章を授与された[1][2]。1928年(昭和3年)、開成中学校校長を辞職後は、夜間中学・開成予備学校(昌平中学)の校長として、勤労青少年の教育に尽力する[1][2]。1936年(昭和11年)4月18日、長男・健行(享年52)を病気で亡くす[1]。 1944年(昭和19年)、四男の行蔵にその職を譲り[注釈 3]、1月に故郷の金沢に帰った健三は、同年12月5日に死亡。享年84[1][2]。健三の遺骨は、橋家の墓地がある野田山に納められた[8]。 人物像開成中学校校長時代の健三の顔写真は、白い長髯を蓄えて、眼光炯々とした異相で[2]、生徒からは「 学校経営者であった健三にとって、老朽化・狭隘化が著しい校舎の建物(当時、生徒たちは「豚小屋」と呼んでいた)の移転整備が課題であったが、学校側には土地も資金の当てもなかった[2]。そこで健三たち校主(健三、石田羊一郎、太田澄三郎)は、窮状を詩文に託して早大教授で漢学者の桂湖邨に訴え[注釈 4]、桂はこれを前田利為侯爵に伝えため、1921年(大正10年)に前田家の所有地を格安で払い下げて貰えることになったという[2][注釈 5]。この場所は、現在の新宿文化センター一帯(新宿六丁目東大久保)である[2]。 しかし、この土地に目をつけた東京市長・後藤新平が、電車車庫の整備を計画し、学校側に譲渡を申し入れてくるが、健三は直ちにそれを拒否した[2]。開成の初代校長の高橋是清からも譲渡を勧められたが[注釈 6]、健三はそれも拒絶する[2]。しかしながら、関係者と相談を重ねるうちに考えを変え、市民のために東大久保の土地を譲ることになった[2]。そして、学校は新たに日暮里の現在の高校敷地を入手し、建設資金不足や関東大震災という難関を経て新校舎を竣工させた[2]。 1941年(昭和16年)5月、長男・健行の死から5年後、健三は息子の親友であった歌人・斎藤茂吉の家を訪ね、亡き息子の墓碑銘の撰文と揮毫を茂吉に依頼した[2][8]。そのことが斎藤茂吉の日記に記されている[2][9][10]。 橋健三の教え子には、娘の倭文重の夫となる平岡梓も教え子であったが、孫の三島由紀夫が、作家となり演劇の世界に入って知り合うことになる村山知義、滝沢修、中村伸郎、芦原英了らは、橋健三の教え子だったという[11]。健三は学問のある厳格な先生で、「ギュウギュウやられたものだった」と芦原英了が述べている[12][11]。学校の水泳合宿が千葉で行なわれた時には、健三の「二人の美しいお嬢さん」(倭文重と重子の姉妹)がやって来て、芦原は彼女らが真紅のモダンな水着姿で海岸を散歩していたのに驚いたと語っている[12][11]。 系譜
脚注注釈
出典
参考文献
関連項目外部リンク
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