平岡 なつ(ひらおか なつ、1876年〈明治9年〉6月27日 - 1939年〈昭和14年〉1月18日)は、内務官僚・平岡定太郎の妻。通称は夏子、または夏。戸籍名はなつ。東京府士族・大審院判事・永井岩之丞の長女。作家・三島由紀夫(本名:平岡公威)の父方の祖母にあたる。幼年時代の公威に影響を与えた。
生涯
1876年(明治9年)6月27日、父・永井岩之丞と、母・松平鷹(のちに高)との間に長女として生まれた[1]。母・高は、常陸宍戸藩主・松平頼位と、新門辰五郎の姪にあたる側室(佐々木氏の娘)との間に生まれた三女である[1]。
1888年(明治21年)、12歳で有栖川宮熾仁親王の屋敷に行儀見習いとして仕える[1][2]。1893年(明治26年)11月27日に、17歳で平岡定太郎と結婚するまでの約5年間、有栖川宮に仕えた[1][2]。1894年(明治27年)10月12日、定太郎との間に一人息子の梓を儲ける[1]。
1924年(大正13年)に長男・梓が、橋倭文重(東京開成中学校の5代目校長・橋健三の次女)と結婚し、翌1925年(大正14年)1月14日、息子夫婦の間に長男・公威が誕生[1][3][4]。49歳の夏子は、初孫の生まれた49日目に、「二階で赤ん坊を育てるのは危険だ」という口実の下、公威を両親から奪い自室で育て始める[2][5]。嫁の倭文重が授乳する際も、夏子が時間を計ったという[2][5]。
坐骨神経痛の痛みで臥せっていることが多い夏子は、家族の中でヒステリックな振舞いに及ぶこともたびたびだった[2][6]。車や鉄砲などの音の出る玩具は御法度で、公威に外での男の子らしい遊びを禁じた[2][6]。遊び相手は女の子を選び、女言葉を使わせたという[6][7]。公威を「小虎」、「小虎ちゃん」と呼び、溺愛した[1][4]。1930年(昭和5年)1月、5歳の公威は自家中毒に罹り、死の一歩手前までいった[2][5]。病弱な公威に対し、夏子は食事やおやつを厳しく制限し、貴族趣味を含む過保護な教育を行った[6][5]。また、夏子は、歌舞伎や能、泉鏡花などの小説を好み、後年の公威の小説家および劇作家としての作家的素養を培った[8]。
1937年(昭和12年)4月、公威が学習院中等科に進み、両親の転居に伴い、夏子のもとを離れる[3][7]。
1939年(昭和14年)1月18日、潰瘍出血のため小石川区駕籠町(現・文京区本駒込)の山川内科医院で死去(享年62)[3]。
人物
夏子は幼少の頃から癇症であったという[1]。生活環境が変れば、気持も落ち着くはずと、有栖川宮家へ行儀見習いに5年間預けられたとされる[1]。
夏子の弟・大屋敦(元住友本社理事、日銀政策委員)は、「私の履歴書」(日本経済新聞 1964年に連載)の中で以下のように語っている[9]。
ただ1人の姉は、昔の文学少女であった。
鏡花を非常に愛読していた。私など、鏡花を読んでもその世界が荒唐無稽でついてゆけないのだが、文学少女だった姉はそれをたいへんおもしろいと感じるらしい。(中略)この姉の孫に平岡公威というのがいる。(中略)ペンネームが三島由紀夫なのである。本人は不足かもしれぬが、天与の文才は私の姉からの
隔世遺伝かもしれない。
— 大屋敦「私の履歴書」[9]
夫の平岡定太郎との夫婦仲については、『月刊噂』1972年8月号に掲載された「三島由紀夫の無視された家系」よれば、以下のように解説されている[10]。
なんといっても
帝大出の“
学士さま”である。“学士さまならお嫁にやろか”といわれた時代だから奈徒も不自然なく嫁いできたものと思える。奈徒は父は
永井玄番頭の嗣子、その母は
宍戸藩の
松平頼位の娘、
松平大炊守の妹というれっきとした名流の
士族であった。
百姓の定太郎が士族の娘を嫁にもらえたのも“学士さま”のお蔭であったろう。平岡家の家系には、このときはじめて名血と結びついた。しかし奈徒という女性は非常に気位が高く気性もはげしかった。
徳川家重臣の
嫡流という意識を強く持ち、その上に美貌であったから、一介の百姓生まれの定太郎を内心では軽蔑していたようである。つね日頃から、「お殿様と
駿河へ行って……」という話をし始めると、それは永井家が家臣として最後まで
徳川慶喜と行動を共にしたというプライドからくるものであった。語学にも堪能で、ドイツ語、フランス語を七十歳すぎても流暢に読んだり話したりすることができたともいう。定太郎は
原敬に重用された性格でわかるように、
能吏というよりは
事業家肌であった。
— 「三島由紀夫の無視された家系」[10]
また、長男の平岡梓は両親の不仲の要因について自著にて以下のように語っている[2]。
…子供が僕一人というのは、あながち母の邪推を待つまでもなく、その平常の振舞いからして父があるいは
トリッペルにとっつかれていたためかと思われます。母自身も猛烈な
坐骨神経痛にかかり、一生を苦しみ通したのですが、これも父のしわざだとの医者のひそひそ話を小耳にはさんだことがありました。大家族の中における長女たる自分の身分、家柄を過信するプライド、父の天衣無縫の行動、坐骨神経痛等々が重なり合って、母は精神肉体両面からの激痛でひどい
ヒステリーになる。この大型台風はたちまち家中をところせましと吹きまくり、その被害や以て想うべしという惨状でした。
— 平岡梓「伜・三島由紀夫」[2]
越次倶子は、「なつの生まれながらの癇症が、自分をかえりみてくれなかった夫定太郎への憎しみへと移り、やがて三島への偏愛となった」という見解を示している[11]。
野坂昭如は、行儀見習いに行っていた間の夏子のことを想像し、夏子がその時の体験を孫の三島に語っていたのではないかと以下のように推察している[12]。
有栖川宮熾仁には、男子が1人しかいない。
威仁といい、定太郎より一つ年上。威仁の青年期と、なつの行儀見習いの時期は一致する。
威仁となつの間に恋が生まれても不思議はない。そしてこの二人も、正式に結ばれるには階級が違う。(中略)結婚には天皇の許可を必要とした。そのまま「
春の雪」の舞台なのだ。
なつの気性からして、悲恋に終ることは覚悟の上、武張ったその父とは違い、海軍に籍はおきながら、祖父の雅やかな血筋を受ける威仁を、この聡明にして美しい娘が愛したとして不思議はない。(中略)
三島もなつに、さんざん昔話を聞かせられたはずだ。(中略)宮家での生活、なつは、威仁親王への恋心を、この上なく美しく物語った。
— 野坂昭如「赫奕たる逆光 私説・三島由紀夫」[12]
家族・親族
永井家
- 父・岩之丞(東京府士族・大審院判事)
- 母・高(松平頼位の三女)
- 高は、松平頼位を父に、松平頼徳の妹として、安政4年(1857年)8月13日)に生まれた。父・松平頼位の側室であった母は佐々木氏の娘で、新門辰五郎の姪である。高は大正12年(1923年)9月18日に死去。享年68。
- 夏子の弟・大屋敦は母・高について以下のように語っている[9]。
私の母の生まれた家もやはり小大名で、
水戸烈公の弟の家であります。長兄
松平大炊頭、頼徳は有名な
武田耕雲斎の
乱のときに幕府から
切腹を仰せつかり、家系ともどもみな切腹してしまいました。私の母は、家は貧しかったのでありますが、そこの家の娘として育って、十六歳ぐらいのころに私のおやじのところへ嫁に参りまして、その間に初めて十二人の子供ができたのであります。(中略)そんな訳で、母は水戸の宍戸藩の
藩主の家でありますが、私の血筋には
江戸っ子と
水戸っ子の両方が伝わっておるのであります。(中略)かように母の家は格式は高いが小藩で、維新後は貧乏
華族の一つであった。(中略)十二人の子を産み、貧乏暮らしに一生を終わった。母はそういうことをうらみにも思わず、不平もこぼさず、父なき後は、たくさんの子供たちとその友だちにかこまれ、
関東大震災後、
上野東照宮社務所の一室で安らかに世を去った。
— 大屋敦「私の履歴書」[9]
- また、祖母・佐藤糸(高の母)については、「母(高)には生母がいた。戸籍上の母でなく、生みの親ということである。当時の社会ではそういうことがありがちで、第二夫人だったわけだ。この生母つまり私の実の祖母は芝居茶屋の娘であったとのこと。私は生前会った記憶がある。たいへん美しいおばあさんだった。この祖母は新門辰五郎の姪であった由であるから、私も新門辰五郎の血をいくらかひいていると言えそうだ」と大屋は語っている[9]。
- 三島由紀夫は、夏子の伯父・松平頼安(高の兄)を登場させた短編『好色』を1948年(昭和23年)に書いているが、その中で高について、「頼安の妹の高姫は美しくて豪毅な女性だつた。写真で見る晩年の面影からも、眉のあたりの勝気なさはやかな感じと、秀でた鼻と、小さなつつましい形のよい口とが、微妙で雅趣のある調和を示してゐる。そこには封建時代の女性に特有なストイックな清冽さに充ちた稍々非情な美が見られるのである」と描写している[13]。
平岡家
脚注
- ^ a b c d e f g h i 「II 三島由紀夫の祖先を彩る武家・華族・学者の血脈」(越次 1983, pp. 71–140)
- ^ a b c d e f g h i 「第二章」(梓 1996, pp. 31–47)
- ^ a b c 「第一章」(年表 1990, pp. 9–30)
- ^ a b 「大正14年」(日録 1996, pp. 14–15)
- ^ a b c d 『仮面の告白』(河出書房、1949年7月)。1巻 2000, pp. 173–364に所収
- ^ a b c d 平岡倭文重「暴流のごとく――三島由紀夫七回忌に」(新潮 1976年12月号)。群像18 1990, pp. 193–204に所収。年表 1990, pp. 17, 21, 172, 192に抜粋掲載
- ^ a b 「平岡公威伝」(原稿用紙 昭和19年2月28日付)。26巻 2003, pp. 420–427に所収
- ^ 「第二部 追想のなかの三島由紀夫――(三)三島由紀夫以前」(佐伯 1988, pp. 234–307)
- ^ a b c d e 大屋敦「私の履歴書」(日本経済新聞 1964年)。越次 1983, p. 108に抜粋掲載。『私の履歴書 第22集』(日本経済新聞社、1964年)、『私の履歴書 経済人7』(日本経済新聞社出版局、1980年)に所収
- ^ a b 噂 1972
- ^ 「II 三島由紀夫の祖先を彩る武家・華族・学者の血脈――永井家〈(永井)なつ〉」(越次 1983, pp. 107–110)
- ^ a b 「II」(オール讀物 1987年5月号)。野坂 1991, pp. 77–154に所収
- ^ 三島由紀夫「好色」(小説界 1948年7月号)。17巻 2002に所収
参考文献