平岡 紀子(ひらおか のりこ、1959年(昭和34年)6月2日 - )は、日本の演出家。父は三島由紀夫。母は平岡瑤子[1]。結婚後は、冨田紀子となった[2]。三島没後20年に、三島の戯曲『葵上』『弱法師』の演出を手がけ[3]、母親の死後は、弟・威一郎と共に三島の著作権保護に努めた[2]。
略歴
1959年(昭和34年)6月2日、父・三島由紀夫(本名:平岡公威)と母・瑤子(旧姓:杉山)の長女として誕生[1]。19時頃、虎の門病院に駆けつけた三島は、新生児室のガラス越しに初めての我が子を見る[4][5]。6月8日のお七夜で「紀子」と命名された[6]。三島はもともと「尹」と名付けたかったが、当用漢字にないので諦め、その代わりに後に書かれる小説『宴のあと』(1960年)の登場人物に沢村尹と名付けたとされる[7]。
3年後に誕生した弟・威一郎と共に、大田区馬込東一丁目1333番地[注釈 1](現・南馬込四丁目32番8号)の家で育った紀子は[16][17]、学習院幼稚園から学習院初等科に通った。今上天皇・徳仁とは学習院幼稚園と初等科で同級生であった[注釈 2]。1964年(昭和39年)12月の幼稚園クリスマス会では、父・三島が潤色した『ちびくろさんぼのぼうけん』、1965年(昭和40年)12月には、同じく三島と母・瑤子の潤色の『舌切雀』が上演された[21][22]。
その後、学習院女子中等科、学習院女子高等科を経て、1982年(昭和57年)3月20日、学習院大学文学部仏文科を卒業した[23]。
三島没後20年にあたる1990年(平成2年)1月には、三島の戯曲『葵上』と『弱法師』を舞踊劇にプロデュース・演出をし[3]、同年9月24日には、外交官の冨田浩司と結婚。外交官夫人としてシンガポールに駐在し、子供を産んだ[24][25]。
母・瑤子の死後、三島との愛人関係を描いた福島次郎の小説『剣と寒紅』が1998年(平成10年)に出版されたが、その著書の中で福島が三島の書簡を無断公表したことに対して紀子は、著作権侵害の故を以て同書の出版差し止めを求め、弟の平岡威一郎と共に福島および文藝春秋を東京地方裁判所に提訴し、2000年(平成12年)5月23日に勝訴が確定した[2][26][27]。
紀子と三島由紀夫
紀子が1歳の赤ん坊の時、三島夫妻は、同居している梓と倭文重に紀子を預けて、2人だけで3か月ほどアメリカ、ヨーロッパ、エジプト、香港に海外旅行に出かけた。三島はディズニーランドに行った際に、ドナルドダックの絵葉書を買って紀子宛てに、「のり子ちゃん元気ですか? お父様とお母様はディズニィ・ランドへ行きました。とても面白く、のり子ちゃんの喜びさうなものが一杯ありました」と書き、「元気でね絵本とお帽子を送りました」と締めくくっている[28]。
紀子が4歳の時に、軽井沢滞在中の川端康成から紀子に可愛い鞄が贈られ、喜ぶ紀子の様子を三島は嬉しそうに、「早速『幼稚園のピクニックにもつていく』と、大喜びで飛んだり跳ねたりしてをります」と川端への礼状に報告している[29]。
その約半年前に三島は、子供が生れたての赤ん坊の頃は、「怪物的であつて、あんまり可愛らしくないので、これなら溺愛しないでもすみさうだ」と安心していたが、少し成長してくると「これは並々ならぬ可愛いもの」だと不安を感じたとし、「人から見て可愛くも何ともないものが可愛くみえるといふことは、すでに錯覚である。困つたことになつたものだと私は思つた」と語っている[30]。
子供が可愛くなつてくると、男子として、一か八かの決断を下し、命を捨ててかからねばならぬときに、その決断が鈍り、臆病風を吹かせ、卑怯未練な振舞をするやうになるのではないかといふ恐怖がある。そこまで行かなくても、男が自分の主義を守るために、あらゆる妥協を排さねばならぬとき、子供可愛さのために、妥協を余儀なくされることがあるのではないか、といふ恐怖がある。(中略)
静かな道の外灯のあかりに、影法師が出た。これを見て、私はギョッとした。家人と私との間に、ちやんと両方から手を引かれた小さな影法師が歩いてゐる。(中略)動物的必然とはいひながら、正に人間と人生のふしぎである。(中略)私は、何ともいへぬ重圧的な感動に押しひしがれ、もう観念しなければならぬと思つた。
— 三島由紀夫「子供について」[30]
三島と楯の会候補生の陸上自衛隊体験入隊中に助教官を務めた江河弘喜は、自分の初めての子供(女児)の名付けを三島に依頼した[31]。候補名を3つ挙げた手紙の中で三島は自身の経験をふまえて、「どうしても可愛がりすぎてしまふ第一子は、女のお児さんがよろしく」と祝福しながら、「人生最初に得る我児は、何ものにも代へがたく、一挙手一投足が驚きであり㐂びであり、……天の啓示の如きものを感じますね」と綴って、ピンクと水色の産着2着を江河に贈ったという[31]。
1970年(昭和45年)11月25日の自決の日、三島は楯の会の4名と車で市ヶ谷駐屯地へ向かう途中、学習院初等科校舎近くの手前に一時停車した際に、「わが母校の前を通るわけか。俺の子供も現在この時間にここに来て授業をうけている最中なんだよ」と、紀子のことを気にかけていたという[32][33]。
家族・親族
平岡家
- (兵庫県印南郡志方町(現加古川市)、東京都)
プロデュース作品
脚注
注釈
- ^ 1958年(昭和33年)10月から建設開始し1959年(昭和34年)4月前に完成したこの大田区の家の住所表記は、1965年(昭和40年)11月の住居表示制度の実施で「南馬込四丁目32番8号」に変更されるまでの間、三島由紀夫が知人らに宛てた書簡や、贈呈本に添付した自身の名刺で「馬込東一丁目1333番地」と記載され(エアメールでは、Magome-higashi)[8][9][10]、三島研究者編纂の全集の年譜や複数の評伝でも町名を「馬込東」と記載しているが[11][12][13]、大田区の住居表示を記録した『住居表示旧新・新旧対照表. 6の2(昭和40年11月15日施行)』の300頁によると、南馬込四丁目32番8号は馬込町東一丁目1333番地に当たり、当地の居住者には平岡公威の名(三島由紀夫の本名)が記載されている[14]。なお、川端康成が書いた三島宛の書簡では1962年(昭和37年)以降に「馬込東」と「馬込町東」の両方の表記が見られる[15]。
- ^ ちなみに、徳仁の母・上皇后美智子と、紀子の父・三島は独身時代の1957年(昭和32年)頃、銀座6丁目の小料理屋「井上」の2階で、食事を兼ねた見合いを行ったといわれている[18][19][20]。
出典
- ^ a b 有元伸子「平岡家」(事典 2000, pp. 572–575)
- ^ a b c 「年譜 平成10年」(42巻 2005, pp. 365–366)
- ^ a b 「年譜 平成2年1月17日」(42巻 2005, p. 356)
- ^ 齋藤康一「ファインダーの中の三島さん」(24巻 2002月報)
- ^ 「昭和34年6月、長女紀子誕生、虎ノ門病院にて」(写真集 2000)
- ^ 「裸体と衣裳――日記」(新潮 1958年4月号-1959年9月号)。30巻 2003, pp. 77–240
- ^ 「第三章 薔薇の痙攣」(生涯 1998, pp. 163–232)
- ^ 阿川弘之からGeorge H. Lynchまでの書簡・葉書(38巻 2004, pp. 33–948)
- ^ 浅野晃から平岡紀子までの書簡・葉書(補巻 2005, pp. 198–235)
- ^ 犬塚潔「三島由紀夫の名刺」(研究6 2008, pp. 166–171)
- ^ 「第五章 『鏡子の家』の時代」内(年表 1990, p. 131)
- ^ 「第三章 薔薇の痙攣」内(生涯 1998, p. 198)
- ^ 「年譜」(昭和34年5月10日)(42巻 2005, p. 231)
- ^ 住居表示旧新・新旧対照表 6の2(昭和40年11月15日施行)(国立国会図書館 Online)p.300
- ^ 川端書簡 2000, pp. 152–171
- ^ 「わが育児論」(34巻 2003, pp. 84–87)
- ^ 「昭和40年、自邸にて、家族とともに」(写真集 2000)
- ^ 「第六章 『和漢朗詠集』の一句」(徳岡 1999, pp. 133–156)
- ^ 「美智子さまと三島由紀夫のお見合いは小料理屋で行われた」(週刊新潮 2009年4月2日号)。岡山 2014, p. 31
- ^ 「四 美智子様の御成婚を祝するカンタータ」(岡山 2014, pp. 30–38)
- ^ 「年譜 昭和39年12月」(42巻 2005, p. 269)
- ^ 「年譜 昭和51年7月中旬」(42巻 2005, p. 344)
- ^ 「昭和57年3月20日」(日録 1996, p. 445)
- ^ 「年譜 平成2年9月24日」(42巻 2005, p. 357)
- ^ 「終章」(川島 1996, pp. 231–235)
- ^ 「年譜 平成12年5月23日」(42巻 2005, p. 368)
- ^ “三島由紀夫の手紙無断使用事件 判例全文”. 2016年4月4日閲覧。
- ^ 「平岡紀子宛ての葉書」(昭和35年11月11日付)。補巻 2005, p. 235
- ^ 「川端康成宛ての書簡」(昭和38年10月4日付)。38巻 2004, pp. 295–296
- ^ a b 「子供について」(弘済 1963年3月号)。32巻 2003, pp. 424–427
- ^ a b 「第二章 剣――段級審査」(杉山 2007, pp. 72–81)
- ^ 「第七章」(梓 1996, pp. 233–256)
- ^ 「第四章 憂国の黙契」(生涯 1998, pp. 233–331)
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