白石直治白石 直治(しらいし なおじ、安政4年10月29日(1857年12月15日)[1][2][3] - 1919年(大正8年)2月17日[1][2])は、明治から大正時代の土木技術者、土木工学者、東京帝国大学教授、衆議院議員、実業家。旧姓は久家[1][3][4]。 経歴・人物土佐藩儒で漢学者の久家種平(忘斎)、峰の長男として土佐国長岡郡十市村(現・高知県南国市十市)に生まれ[5]、1874年(明治7年)白石栄の養嗣子となる[3][4]。13歳の時、土佐藩校・致道館に学ぶ[5]。母の弟・中島信行の影響により勤王論に刺激され、長州に走ったこともあったが、維新後上京し後藤象二郎家に寄寓する[4]。 1881年(明治14年)東京帝国大学工科大学土木学科卒業[2][3][4]。農商務省を経て、東京府勤務となる[2][3][4]。1882年(明治15年)竹内綱の二女・菊と結婚[5]。1883年(明治16年)文部省より海外留学を下命され米国に留学[2][3][4]。橋梁工学の第一人者として知られたレンセラー工科大学のバー(W. H. Burr)教授に師事し、ペンシルベニア鉄道会社、フェニックス橋梁会社などで実務を経験する[6]。さらに欧州へ渡り、英・仏・独の工場を回り[6]、ベルリン工科大学などで学び、1887年(明治20年)帰国[2]。 帰国後、農商務省御用掛、東京府御用掛を経て、東京帝国大学教授となるが、1890年(明治23年)退官[1][2][3][4]。1891年(明治24年)工学博士[4]。実業界入りし、九州鉄道社長、関西鉄道社長、猪苗代水力電気、若松築港、日韓瓦斯電気、日本窒素肥料などの会社重役を歴任[1][2][3][4]。この間、携わった1906年(明治39年)竣工の神戸和田岬の「東京倉庫D号」は、日本初の鉄筋コンクリート造の建物である[4][7][注釈 1]。ほか、当時東洋一の規模を誇った長崎のドライ・ドック(1904年竣工)や若松港などの建設にも関与した[1][4]。 のち、郷里より推されて1912年(明治45年)の第11回衆議院議員総選挙に出馬・当選し、立憲政友会所属の衆議院議員となり(3回当選)、第35回帝国議会では全院委員長に推挙された[1][2][3][4]。その間、義兄の竹内明太郎と共に四国縦貫鉄道の山田・須崎間の鉄道建設に尽力した[5]。その後、1919年(大正8年)土木学会第5代会長となるが、就任後2か月で没した[2][4]。墓所は青山霊園(1イ10-16)[8]。 直治南岳と号し詩を嗜んだ[1]。 著作
伝記
親族
脚注注釈出典
参考文献
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