百瀬 渡(ももせ わたる[4]、1874年(明治7年)2月5日[1] - 1945年(昭和20年)12月21日[1][4])は、長野県出身の政治家。衆議院議員、松本市長。
来歴
1888年(明治21年)に松本中学校に入ったが2年後に中退。降旗元太郎のいた信陽日報(後の信濃日報)に記者として入社した。記者を続けながら(後に同社の社長となる[5])、中山村村会議員も務めた[1]。東筑摩郡会議員を経て[2][5]、1912年(明治45年)以来、長野県会議員に毎回当選[6]。
その後の代議士時代には「原蚕種国営に関する建議」を提出するなどした[7]。翼賛政治体制に反対の立場を取り、院内会派「同交会」に所属したが[8]、1942年(昭和17年)4月30日の翼賛選挙(第21回衆議院議員総選挙)には出馬しなかった(市政=後述に専念するためという説がある[4])。
1940年(昭和15年)から1944年(昭和19年)までは、松本市長を1期務めた[4]。長いひげの風貌で「蒙古王」と呼ばれ、親しまれた[9]。
脚注
関連書籍
- 蒙古王百瀬渡の生涯: 気骨ある文人政治家(2012.11、百瀬渡顕彰会編集委員会)
衆議院全院委員長 |
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