甲斐錦勝
甲斐錦 勝(かいにしき まさる、1920年(大正9年)10月31日 - 没年不明)は、山梨県山梨市牧丘町(現役当時は東山梨郡中牧村)出身で、二所ノ関部屋(入門時は松ヶ根部屋)に所属した大相撲力士。本名は鶴田 勝(つるた まさる)。最高位は西前頭12枚目(1950年5月場所)。現役時代の体格は175cm、86kg。得意手は左四つ、吊り、寄り[1]。 来歴・人物17歳の時に上京し、元小結・紅葉川が率いる松ヶ根部屋へ入門。1938年(昭和13年)5月場所で初土俵を踏んだ[1]。同期生には、後の横綱・吉葉山や小結・大起などがいる。当初の四股名は、本名と同一の「鶴田」。改名後の「甲斐錦」は、故郷・山梨県の旧称・甲斐に因む。 三段目時代と新十両昇進時(1945年(昭和20年)6月場所後)に応召された事も災いして出世は遅れ、初土俵から新入幕(1949年(昭和24年)5月場所)[1]まで、およそ11年を要した。二所ノ関部屋に移ったのは、1950年(昭和25年)1月場所からである。 体重90kgに満たない小兵であったが、左四つからの吊りや寄りが得意で、しぶとい相撲を取った。しかし、幕内在位は5場所に留まり、幕内に於いての勝ち越しもわずか2度(1949年5月場所…8勝7敗、1950年1月場所…9勝6敗)に終わっている。平幕時代の栃錦と対戦した事がある。 現役晩年は十両11枚目まで陥落し、十両11枚目で全休して幕下陥落が決定的となった1951年(昭和26年)5月場所後、30歳で廃業[1]。 廃業後の動向は不詳。2020年が生誕百年にあたるが、大相撲史上関取経験者のセンテナリアンは存在せず、健在であれば史上初の事例ということになる。 主な戦績
場所別成績
幕内対戦成績
※カッコ内は勝数、負数の中に占める不戦勝の数。
改名歴
家族甥に、プロレスラーとして活躍したジャンボ鶴田(本名・鶴田 友美(つるた ともみ))がいる。 甲斐錦が相撲界を去る直前の、1951年(昭和26年)3月に誕生した。出身地は、叔父の甲斐錦と同じ山梨市牧丘町。なお、ジャンボ鶴田の好敵手天龍源一郎は相撲時代二所ノ関部屋にいたので甲斐錦の部屋の後輩に当たる。 なお、甥の鶴田は体験入門のつもりが朝日山部屋所属力士として間違って新弟子検査を受けて合格して力士となってしまったため、甲斐錦は慌てて話を付けて新弟子検査を取り消した。そのようなこともあって、鶴田の公式記録は日本相撲協会には残っていない。 脚注関連項目 |
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