田辺輝実
田辺 輝実(たなべ てるざね、1841年12月23日(天保12年11月11日)- 1924年(大正13年)10月19日)は、日本の武士(柏原藩士)、官僚・政治家。県知事、貴族院議員。希代の馬好きとして知られ、高知県県令時に高知県における西洋式競馬の基礎を築いた。 経歴丹波国出身。丹波柏原藩士・田辺興の長男として生まれる。明治2年(1869年)、明治政府に出仕し弾正少忠に就任。 以後、入間県・群馬県・熊谷県・愛知県で勤務。さらに、内務属、鹿児島県属、内務省御用掛、高知県大書記官、内務権大書記官、農商務省山林局長、内務省土木局長を歴任。 1881年1月、高知県令に就任。県会の立志社と保守派の対立により、1882年11月に知事を退任した。1883年5月、宮崎県令となり、官制改正により宮崎県知事と名称が変更された。以後、佐賀県・三重県・宮城県の各知事を歴任。 1905年12月13日、貴族院勅選議員に任じられ[1]、茶話会に属し死去するまで在任。1907年6月22日、錦鶏間祗候に任じられた[2]。 その他、臨時博覧会事務局評議員、官林官有地取調委員、林政取調委員、土木会委員などを務めた。 栄典・授章・授賞
脚注
参考文献
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