田中千秋
田中 千秋(たなか ちあき?)は江戸時代後期の佐渡奉行所地役人。佐渡田中家12代。 経歴文化12年(1815年)[2]保科家の次男として生まれ、田中葵園の養子となった[3]。文政12年(1829年)学問所見習、天保元年(1830年)金蔵役・学問所並役助、次いで学問所並役[4]。天保11年(1840年)2人扶持[4]。天保12年(1841年)沢根番所役[4]。 弘化3年(1846年)養父が死去し、後職を継いだ[4]。遺言状では、もし浪人になっても他国に出ず、真光寺・国分寺等に身を寄せながら再仕官を目指し、無理だった場合は医者になることを提案されている[5]。 安政元年(1854年)8月30日40歳で死去した[2]。法名は空谷院定誉秋水紹斎居士[4]。 親族脚注参考文献
|