牧野淸人
牧野 淸人(まきの きよと、1862年3月20日(文久2年2月20日[1]) - 1936年(昭和11年)9月2日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 経歴1862年(文久2年)、備後国東城(現在の広島県庄原市東城町)にて牧野平二の三男として生まれた。 1881年(明治14年)陸軍士官学校(旧6期)に入校後、1883年(明治16年)12月25日に同校を卒業し[2]、同日、工兵少尉に任官[3]し工兵第一大隊付となる。1887年(明治20年)4月27日工兵中尉に昇進[4]し、1888年(明治21年)12月11日近衛工兵中隊付に[5]、1889年(明治22年)5月14日幼年学校生徒隊中隊付に補される[6]。1891年(明治24年)8月6日、工兵大尉に昇進し、近衛工兵中隊長に補される[7]。 1895年(明治28年)10月22日工兵少佐に昇進[8]し、同日付けで台湾兵站監部副官に就任[9]。その後、工兵監部副官、工兵監部員、工兵第八大隊長などを経て、1901年(明治34年)3月13日、工兵中佐に昇進[10]。同年9月26日、陸軍士官学校教官となり[11]、陸軍大学校兵学教官を経て、1904年(明治37年)5月14日、工兵大佐に昇進[12]。1906年(明治39年)11月25日、近衛工兵大隊長に就任した。 1910年(明治43年)11月30日、陸軍少将に進級し基隆要塞司令官に着任[13]。その後、陸地測量部長、東京湾要塞司令官を経て、1915年(大正4年)2月15日、陸軍中将に昇進[14]。 同年8月10日、待命となり、1915年(大正4年)10月15日予備役に、1925年(大正14年)後備役に編入された。1929年(昭和4年)4月1日に退役し、1936年(昭和11年)9月、75歳で死去。 栄典
脚注
参考資料
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