落合豊三郎
落合 豊三郎(おちあい とよさぶろう、旧字体:落合 豐三郞、文久元年2月28日[1][2](1861年4月7日) - 1934年(昭和9年)3月31日[1][2])は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 経歴松江藩士・落合鍬蔵の三男として江戸で生まれる[1]。陸軍幼年学校を経て、1879年(明治12年)12月、工兵少尉に任官[1][3]。1880年(明治13年)12月、陸軍士官学校(旧3期)工兵科を卒業[1]。1886年(明治19年)12月、陸軍大学校(2期)を優等で卒業した[1][4]。 参謀本部第3局第1課員、参謀本部第1局員、陸大教官、ドイツ公使館付などを経て、1894年(明治27年)9月、第2軍参謀に発令され日清戦争に出征[1][2][4]。その後、陸大教官、イタリア公使館付、参謀本部第5部長、兼中部都督部参謀長、兼参謀本部第4部長などを経て、1903年(明治36年)5月、陸軍少将に進級した[1][4]。 日露戦争では、第2軍参謀長として出征した[2]。その際、部下の由比光衛参謀副長と対立し、由比は奉天会戦直前に第8師団参謀長に転出した。以後、韓国駐剳軍参謀長、満州軍参謀、同軍総兵站監部参謀長、関東総督府陸軍参謀長、第1師団司令部付、交通兵旅団長、工兵監などを歴任し、1910年(明治43年)3月、陸軍中将に昇進[1][2][4]。1914年(大正3年)5月、東京湾要塞司令官となり翌月に待命[1][4]。同年8月、予備役に編入され[2][4]、1924年(大正13年)4月に後備役となった[1]。 栄典
親族著書
脚注
参考文献
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