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この項目では、燕市発祥で燕市・三条市で提供されている背脂入りのご当地ラーメンについて説明しています。三条市発祥のご当地ラーメンについては「カレーラーメン」をご覧ください。 |
燕三条背脂ラーメン(つばめさんじょうせあぶらラーメン)とは、新潟県県央地域(燕市・三条市)を中心に提供されている、豚の背脂を入れたご当地ラーメン。新潟5大ラーメンの一つである。
概要
新潟県県央地域における背脂ラーメンは、1932年(昭和7年)に福来亭の前身となる屋台を中国浙江省出身の徐昌星[注 1]が燕町(当時)で開業したのが発祥とされている[3]:61[4]:2-3。徐は翌年、福来亭を開業した[5]。この福来亭をリニューアルした杭州飯店が昔ながらの代表的な人気店である[6]:188。
屋台開店当時の燕地域は、現在の朝日町や幸町付近に金属加工工場が数多くあり、徐は中央通りに屋台を構えた。火力の弱い屋台では細麺しか茹でることができず、麺に合わせるスープは現在とは全く違ってさっぱりした薄味であった。翌年の1933年(昭和8年)には燕駅近くの穀町で店舗を構えた[1][2]
現在の杭州飯店の味へ近づき始めたのは1937年(昭和12年)頃からである。たくさん汗をかく工場で働く人からの要望で塩味を濃くしていき、ただ塩っぱいだけではなく味に甘味とまろやかさを出すために研究と改良を重ねた結果、背脂を使うことを思いつく[1][2]。背脂ラーメン普及前、背脂は精肉店などで廃棄されることが多い部位だった[5]が中国では一般家庭でも料理に使われていた[1][2]。昭和30年代に出前が1日800杯に達し、届け時間が長くなっても麺が伸びにくいように、小麦粉の原料を中力粉から強力粉に変え[3]:186-187、麺を極太にしていった[2][4]:4[7][8][注 2]。また、大量に背脂が入れられる様は、出前をしてもスープが冷めないように蓋をするかのようである[8]。
また、徐昌星は、その技術を自分のものだけにはせず「燕」のものとするために、同業者である他店にも技術を指導したとされる[1][注 3][注 4]。
このラーメンの特徴の一つである極太麺はうどんのようだとも表現される[7]。煮干しなどの魚介類の出汁が効いた、濃口醤油のスープに、豚の背脂が表面を覆っているのが特徴[7][1][注 5][注 6]。具にはチャーシュー、メンマ、薬味野菜としては長ネギではなく大きめに刻んだ玉ネギが用いられることが多い[10]。
名称にはぶれがあり、燕三条背脂ラーメン[11]:6[12]:12[13]:86-87[14]:13[15]のほか、新潟県燕市や隣接する三条市を中心として広まっていることから燕三条系ラーメン(つばめさんじょうけいラーメン)[16][17][3]:61,187[8][18]:188[6]:188、燕背脂ラーメン(つばめせあぶらラーメン)[4]:5[19]:16[20][21]:206[22][23]とも紹介されている。単に背脂ラーメンや燕系ラーメンと呼ばれることもある[注 7]。
石神秀幸による新潟四大ラーメンの分類では燕三条流背脂ラーメン[24]または燕三条背脂ラーメン[25]:109-111として紹介されている。また、大崎裕史は、著書で新潟の四大ご当地ラーメンの背脂系として紹介している[26]:181[18]:187-188。
同じく背脂ラーメンである「背脂チャッチャ系[注 8]」や「ますたに系」よりも古い歴史があるといわれている[3]:186-187[2][注 9][注 10]。
三条市に本社のあるタクシー会社「中越交通」は、貸し切りで運転手がおすすめする背脂ラーメンの店を案内する「燕背脂ラーメンタクシー」を運行している[20]。
2022年(令和4年)には、文化庁が選ぶ「100年フード」の「未来の100年フード部門」で、背脂ラーメンが選ばれた[29][30]。
代表的な店舗
脚注
注釈
- ^ 昭和3年に長崎に来日。当時24歳。[1]。京都の新福菜館の徐永俤の親戚にあたる[2]。
- ^ 徐勝二(徐昌星の息子)は、「この味になるまで、どんな苦労がありましたか。」との問いに、「今の麺の太さは、私が入店した昭和39年当時の2倍くらいあります。当時は出前だけで800杯くらいあったんですよ。1軒の工場で150杯とか注文くれたんですね。残業する時の夕飯でした。ちっちゃい店だったんで、一度にそんな数は当然できません。申し訳なかったけど、早いところは夕方4時過ぎ頃から配達させてもらって、遅いところは9時頃だったかな。そんな時、出前していてやっぱり麺が伸びちゃうんですよ。せっかくならおいしいものを食べてもらいたいじゃないですか。だから、当然、父からは怒られましたね。伸びにくい麺でおいしくしたい。そんなの無理なんですよ。太い麺を短時間で茹でるために、コークスを練炭に混ぜて使ったりもしました。そしたら、今度は釜が壊れちゃうんです。その時も父に怒られましたね。そんな風にケンカしながら納得のいくものを作ってきました。」と答えている[1]。
- ^ 徐勝二は、「昭和30年代、市内の食堂やラーメン店にラーメン作りの指導をしていたそうですね。」との問いに、「そうなんですよ。父は弟子が沢山いました。自分だけの味にするんじゃなくて、『みんなでレベルアップして、いいものを作っていきましょう。』という人だったんですね。みんなでそうやって技術を高めてきたおかげで、燕のラーメン屋はどこの店に入ってもおいしい。でもその弟子だった人も亡くなっちゃった人が多くなってきて、2代目とか3代目で続いているとうれしくなりますよね。」と答えている[1]。
- ^ 岩岡洋志は、「…燕市内でこの背脂を使ったラーメンが多いのは、福来亭が発展のために組合を作り、技術を隠さずに他の飲食店にも教えていたから。福来亭で仕事をしていた中華亭や龍華亭の店主が取り入れ、他に教えたという説もありますし、もしかしたらこのラーメンを教わった新潟県出身者がこの背脂を全国に広めたのかもしれない。」と述べている[2]。
- ^ 「煮干しが効いた背脂入りのしょっぱいスープ。背脂がまろやかさと甘さを演出。口の中をさっぱりさせてくれるみじん切りの玉ねぎ。加水率が高く伸びにくい極太麺。定番、甘口のメンマ。脂っこくなく、スープによく合うチャーシュー。」との解説されている[1]。
- ^ 大崎裕史は、「この(ラーメンの)強烈な特徴は背脂だけではなく、油も多いこと。そして。自家製の麺が東京の『ラーメン二郎』並みに極太麺であること。そして、そこに煮干しが効いていることである。」とし、「極太麺・背脂・煮干し、というミスマッチな組み合わせと思ってしまいがちだか、…」「…煮干し好き・二郎好き・こってり好きを包含するラーメンなので、東京に進出しても人気店となる素養を持っている。」[9]:181「…くせになる味だ…。」と述べている[6]:188。
- ^ 新潟4大ラーメンが注目され始めた2005年頃には「背脂ラーメン」と雑誌に紹介されていた[7]
- ^ でき上ったラーメンの丼の上で、加熱して柔らかくなった豚の背脂を、ザルに入れて「チャッチャッ」と振り、ラーメンに脂のトッピングをするところから、こう呼ばれる[27]。
- ^ 石神秀幸が監修した漫画『ラーメン発見伝』も「燕三条ラーメンは背脂チャッチャ系よりも遥かに長い歴史がある」としている
- ^ 大崎裕史は、「背脂といえば、東京の『ホープ軒』をはじめとする背脂チャッチャ系や、京都の『ますたに』を本流とするますたに系がある。どっちが元祖だ、という論議もあったが、新潟には、その両地区よりも古くから背脂系がある。」と述べている[9]:181[6]:187-188。
出典
参考文献
関連項目