渡部恒三
渡部 恒三(わたなべ こうぞう、1932年〈昭和7年〉5月24日 - 2020年〈令和2年〉8月23日)は、日本の政治家。元の姓名は、渡部 恒蔵(読み同じ)。正三位、勲一等旭日大綬章。 衆議院議員(14期)、衆議院副議長(第60・61代)、厚生大臣(第63代)、自治大臣(第39代)、国家公安委員会委員長(第49代)、通商産業大臣(第53代)、自由民主党国会対策委員長(第32代)、新進党政務会長(第2代)兼国会運営委員長(第2代)、同総務会長(初代)、無所属の会代表(第3代)、民主党国会対策委員長(第11代)、同最高顧問、復旦大学経済管理学院名誉教授などを歴任。自由民主党所属時は竹下派七奉行の1人だった。 経歴青年時代福島県南会津郡田島町(現・南会津町)出身。祖父は「明治政府ができて最初の国会議員」であったという[1]。父・渡部又左衛門は福島県議会議員や福島県田島町長を務めた。父の死後、又左衛門を襲名した長兄は福島県田島町長を2期務めている[2][3]。小室直樹は福島県立会津高等学校時代の同級生。 早稲田大学在学中は雄弁会に所属。同期会員に藤波孝生がいた[1]。また、同じ学部の2年先輩に政治評論家の三宅久之がいた。また、野球部に在籍していた福嶋一雄、広岡達朗を故郷に招き、二人に自らの母校である会津高校野球部のコーチを依頼した[4]。その縁で広岡とは現在でも親交が深い[要出典]。 政治家への道自由党の石橋湛山の私設秘書となったが、20歳になって初めての選挙である第25回衆議院議員総選挙では、右派社会党書記長であった浅沼稲次郎に投票したという。渡部は、「石橋も浅沼も早稲田の先輩だったから」何の違和感もなかったと語っている[5]。内閣官房副長官などを務めた八田貞義の秘書を経て、1959年4月の福島県議会議員選挙に立候補し、初当選。県議選に初めて立候補の際には『選挙で名前を書きやすいように』と、出生時の名であった『恒蔵』から『恒三』に改名し、後に戸籍名も『恒三』とした[6]。福島県議会議員時代には自由民主党福島県支部連合会政務調査会長も務めるが、2期目途中、八田の選挙活動にからむ公職選挙法違反のため有罪判決を受け県議会議員を辞職[1]。 1969年、第32回衆議院議員総選挙に「県議ならばカムバックできる。衆議院は無理」という後援者の説得を振り切って旧福島2区から無所属で立候補。明治100年を記念した特別恩赦で公民権停止が解けた直後だった[1]。「会津のケネディ」(「ワタスは東北のケネディダす」)を自称して、初当選した。選挙期間中自由民主党から公認を得られなかったが、当選したのち追加公認された。渡部によると、当時の党幹事長・田中角栄が中継のテレビカメラの前で渡部を名指しして不明を恥じたという[7]。69年の総選挙で初当選した議員は多くが田中の所属する佐藤栄作派(周山会)に所属したが、渡部は「俺は会津出身だから(戊辰戦争で戦った)長州の家来[注 1]にはなれません」と宣言してしばらく無派閥を貫いたのち、田中派が結成されると、すぐにこれに参加した[8]。 商工族としてキャリアを積む。国会内では衆議院商工委員長、政務では通産政務次官、厚生大臣、自治大臣、国家公安委員会委員長、通商産業大臣、党務では自民党国会対策委員長を歴任した。経世会では竹下派七奉行の1人に名を連ねる。厚生大臣在任当時の国会答弁で『少子高齢化社会』というキーワードを使い、年金法や医療保険法改正に取り組んだ。渡部自身は「少子高齢化という言葉を最初に使った政治家は私だろう」と語っている[9]。また、いわゆる「トルコ風呂問題」が持ち上がったのは、彼の厚相在任中であった。 衆議院副議長1993年に自民党を離党後、新生党を経て新進党の結党に参加。新進党では幹事長代理、政務会長兼国会運営委員長、総務会長、副党首を歴任し、1996年に衆議院副議長に就任。2000年に再任された。副議長在任日数2498日は衆議院創設以来最長記録。当初、副議長就任には前向きではなかったが「早稲田大学雄弁会の後輩の小渕恵三が衆議院議長に就任するので」と説得され、副議長就任を引き受けた。しかし、小渕は1963年衆院選当選同期である橋本龍太郎首相の説得により、「上がりポスト」の衆院議長就任を固辞し、結局伊藤宗一郎が衆院議長に就任した。副議長就任時の慣例として党籍を離脱中に出身政党の新進党が解党し、自由党・新党友愛・新党平和・黎明クラブ・改革クラブ・国民の声の6党に分裂したが、渡部はそのいずれにも籍を置かず、無所属の会(会派は民主党・無所属クラブ、選挙では与党の公明党や保守新党の推薦も受ける)に参加した。 2000年、衆議院副議長に再任。野党側から選出されるのが慣例の衆院副議長人事において、野党側が石井一を推したのに対し、与党側が唐突に渡部の擁立を表明した。渡部の副議長続投は当時の最大与党・自民党、特に幹事長の野中広務の強い意向であった。これは大の公明党嫌いで知られる石井が自自公連立政権を強く批判していたためである(ただし石井は新生党時代、公明党も参加する非自民連立政権の一員であり、羽田内閣では入閣している)。野中の主導による渡部擁立に対して野党4党は一斉に反発し、「野中幹事長の私怨によって、暴挙がおこなわれようとしていることを看過できない。私たちは大人の政党として責任を果たしたい」(鳩山由紀夫)、「国会は与野党あっての国会。与党のため、自民党のため、ましてや野中幹事長のために存在するのではない」(佐藤敬夫)などとして野党4党は石井に揃って投票するとともに、賛成で臨むはずだった議長選挙では白紙で投票し抗議の意思を示した。しかし、結果は渡部287票、石井189票で渡部が当選し、副議長に再任された。 2005年9月の第44回衆議院議員総選挙前に民主党に入党し、同党公認で福島4区から立候補。渡部は小選挙区制導入前から会津地方で強固な地盤を築いていたが、この選挙では自民党の渡部篤(血縁関係はない)に約7000票差まで迫られる猛追を受けた(渡部篤も比例復活)。また渡部恒三陣営の選挙違反が摘発され、運動員が逮捕された(後述)。 民主党時代国会対策委員長2006年2月、堀江メール問題で前原誠司民主党代表の側近である野田佳彦国会対策委員長が辞任すると、鳩山由紀夫幹事長の要請を受けて後任の国対委員長に就任した。菅直人や山岡賢次ら国対に精通したベテランが相次いで就任を固辞したための苦肉の策であった。衆院副議長を経験した党内最長老の国対委員長就任は異例のことであり、与党・自民党からも驚きの声が聞かれた(過去には園田直が衆院副議長経験後に自民党国対委員長に就任した例があった)。渡部の国対委員長就任について、当時の小泉内閣の一員である麻生太郎外務大臣は、平均年齢の若い前原執行部を引き合いに出して「貫禄が違う」と渡部を持ち上げた[要出典]。 就任直後から生放送のテレビ、ラジオ番組に相次いで出演し、9月に行われる民主党代表選の前倒しや、永田寿康議員へ辞職要求などを発言、鳩山幹事長はその火消しに追われた。堀江メール問題に関して、2006年3月15日放送のTBS系「みのもんたの朝ズバッ!」で涙を流して謝罪した。 国対委員長辞任後2006年9月に国対委員長を辞任し(後任は髙木義明)、民主党最高顧問に就任した。2ヶ月後の11月12日に投開票された福島県知事選挙において、渡部の秘書を長く務め、当時参議院議員(民主党所属)だった渡部の甥(姉の長男)である佐藤雄平を擁立。佐藤は当選を果たした。前任の佐藤栄佐久も、渡部の盟友的存在の一人であった。 第21回参議院議員通常選挙について、党代表の小沢一郎が、野党で過半数議席獲得ができない場合、政界を引退すると表明したのに続き、「野党が自民・公明を上回る議席を取れなかったら、小沢代表だけでなく私も辞める」と決意を示し、その結果民主党は大勝するに至った[要出典]。 2007年10月4日、自身の政治団体に関わる不祥事(後述)のために党最高顧問などの役職を辞任するが、2008年1月8日、民主党最高顧問に復帰。無役であった期間は約3ヶ月にとどまった。復帰が認められた理由について、党幹部の1人は「年が改まったので」とコメントした[要出典]。その後の2009年10月26日、民主党の両院議員総会で最高顧問に再任されなかった。鳩山由紀夫首相辞任後、菅直人新執行部で再度、最高顧問に就任した。 政界引退2012年11月15日、高齢を理由として次期衆院選には出馬しない意向を正式に表明。後継は指名せず。翌日衆議院が解散され失職、政界を引退した。引退する際に「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」という言葉を残した[10]。 引退後は民進党を経て国民民主党の福島県連最高顧問を務めた[11]。 死去2020年8月23日2時8分、老衰により福島県会津若松市内の病院で死去[12]。88歳没。死没日をもって正三位に叙され、銀杯一組が授けられる[13]。 親族
人物像人柄
政策
政党人として
小沢一郎との関係
後進の指導
報道被害
不祥事
所属していた団体・議員連盟
略歴経歴
政歴
文献著書
論文関連文献
脚注注釈
出典
関連項目外部リンク
|