渋川義満

 
渋川義満
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 元亀3年(1572年
または元亀4年2月17日1573年3月20日[要出典]
別名 通称:今探題[1]
官位 従五位下宮内大輔
氏族 清和源氏義国流足利氏庶流備後渋川氏
父母 父:渋川義正、母:八幡新造毛利弘元の次女)
新右衛門、女(冷泉元満正室)、うか嶋毛利輝元養女、田中徳庵室)[2]
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渋川 義満(しぶかわ よしみつ)は、戦国時代武将備後国小童山城主。父は渋川義正。母は毛利弘元の次女で、毛利元就の異母妹にあたる八幡新造

生涯

渋川氏足利氏の支流であるばかりでなく、室町幕府2代将軍足利義詮の正室・幸子の生家でもあり、足利氏一門の中でも将軍家の家族として遇された名門である。

足利一門で備後国御調郡八幡村[注釈 1]八幡城を本拠地とする国人・備後渋川氏当主である渋川義正の子として誕生。

母の八幡新造安芸国国人毛利弘元の次女にあたり、この縁から毛利家の保護下にあったが、家臣としての記録は無く、あくまで将軍家一門の名族・客将として家名を保った。

諱の「義」は、足利将軍家よりその通字を授与されたものであり、「満」は祖先にあたる渋川満行満直父子が室町幕府3代将軍・足利義満より偏諱を受けた字を取ったものである。また、九州探題家渋川氏の末裔を称したことから、毛利家家中からは今探題と称された[1]

元亀3年(1572年)(または翌年)に死去[3]し、名族としての備後渋川氏は義満の死を以って消滅したとされる。

芸藩通志』では、「その子・新右衛門より里民」になったという[3]。義満の娘には毛利輝元の仲介で旧守護・大内氏の庶家である冷泉隆豊の次男で毛利氏家臣の冷泉元満の正室となった娘と、毛利輝元の養女となって田中徳庵に嫁いだうか嶋がいる[2]

脚注

注釈

  1. ^ 現在の広島県三原市八幡町

出典

  1. ^ a b 『閥閲録』巻76「村上權右衛門」第5号、年月日不詳、御やと(八幡新造の孫娘・うか嶋)宛て、てる元(毛利輝元)書状。
  2. ^ a b 時山弥八 1916, p. 531.
  3. ^ a b 谷口 2022, p. 167.

参考文献

  • 時山弥八 編『稿本もりのしげり』1916年11月。全国書誌番号:73020257 オープンアクセス国立国会図書館デジタルコレクション
  • 谷口雄太『足利将軍と御三家 吉良石橋渋川氏吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー559〉、2022年11月1日。ISBN 978-4-642-05959-6 
  • 山口県文書館編『萩藩閥閲録』巻76「村上權右衛門」

 

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