淡谷清蔵
5代淡谷 清蔵(あわや せいぞう、1846年11月11日(弘化3年9月23日[1][注釈 1]) - 1923年(大正12年)7月10日[3][4][5])は、日本の政治家、実業家。衆議院議員、青森市長。幼名・清作[6]。 経歴陸奥国津軽郡青森(現青森県青森市)で、淡路島を祖とする呉服商「大世」の家に生まれる[6]。成人となり家業に従事し、安方町組頭となる[3][6]。1889年(明治22年)5月22日に清蔵と改名した[7]。同年、青森町会議員に当選した[7]。1891年(明治24年)、銀行に類似した「盛融会」(ため講)を創立[6]。1892年(明治25年)にも町会議員に当選したが、1895年(明治28年)4月に辞職した[8][9]。その後、商業会議所会頭、農工銀行取締役、青森電燈会社取締役、青森倉庫会社社長、青森貯蓄銀行専務取締役、青森銀行頭取、第五十九銀行取締役などを務めた[3]。 1898年(明治31年)に青森市会議員に当選した[10]。同年6月13日に市会議長となった[11]。1901年(明治34年)にも市会議員に当選した[12]。1902年(明治35年)9月22日に青森県会議員補欠選挙に青森市選挙区から立候補して、当選した[13]。1903年(明治36年)3月、第8回衆議院議員総選挙で青森県青森市から出馬して当選した[3]。これに伴い、県会議員は辞任した[2][13]。1904年(明治37年)、1907年(明治40年)にも市会議員に当選した[14][15]。衆議院議員を一期務めた[3][注釈 2]。 1908年(明治41年)12月7日、青森市長に就任した[6][16][注釈 3]。青森築港期成同盟会の発足などの功績を残した[6]。しかし、市水道部の慰労金問題で1910年(明治43年)3月31日に引責辞任して、政界を引退した[2][4][6]。そのほか、政界では、町連合会議員、同議長、所得税調査委員を務めた[3]。 1923年(大正12年)7月10日午後11時30分に死去した[4]。 淡谷家先祖は淡路島の出身で、北前船の船乗りだった初代の源四郎が明和元年(1764年)に龍飛沖で遭難し、救助後そのまま青森にとどまり、安方町で阿波屋という屋号の魚商を営んだ[18]。その後、魚商から呉服商へ転換し、「大世」の屋号で青森町屈指の豪商へと成長した[18]。清蔵は源四郎から数えて5代目[18]。 日本社会党衆議院議員を務めた淡谷悠蔵は甥(妹の五男)にあたる。また、歌手の淡谷のり子は大姪にあたる。 出典注釈脚注
参考文献
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