涼波 (駆逐艦)

涼波
基本情報
建造所 浦賀船渠
運用者  大日本帝国海軍
艦種 一等駆逐艦
級名 夕雲型
艦歴
計画 1939年度(④計画
起工 1942年3月27日
進水 1943年3月12日
竣工 1943年7月27日[1][注釈 1]
最期 1943年11月11日、戦没
除籍 1944年1月5日
要目
基準排水量 2,077 トン
公試排水量 2,520 トン
全長 119.3 m
最大幅 10.8 m
吃水 3.76 m
主缶 ロ号艦本式ボイラー×3基
主機 艦本式タービン×2基
出力 52,000 馬力
推進器 スクリュープロペラ×2軸
最大速力 35.5 ノット
燃料 重油:600 t
航続距離 5,000 海里/18ノット
乗員 225 名
兵装
レーダー 22号電探
ソナー 九三式水中聴音機
九三式三型探信儀
テンプレートを表示

涼波(すずなみ)は[3]日本海軍駆逐艦[4]夕雲型の10番艦である。艦名は日本海軍の艦艇としては初代。海上自衛隊護衛艦すずなみ」に継承された。

概要

日本海軍が浦賀船渠1942年(昭和17年)3月から1943年(昭和18年)7月末にかけて建造した夕雲型駆逐艦[5]。竣工後、訓練部隊の第十一水雷戦隊に編入され[6]、旗艦「龍田」や姉妹艦等と内海西部で訓練に従事した[7][8]。 8月20日付で、夕雲型駆逐艦3隻(涼波、早波藤波)は新編の第32駆逐隊に所属する[9]。第32駆逐隊は9月30日付で第二水雷戦隊に編入された[10]

10月中旬、第32駆逐隊(早波、涼波、藤波)は丁三号輸送部隊[注釈 2]としてトラック泊地に進出する[13]。 「龍田」と第32駆逐隊は、それぞれ甲支隊ポナペ島輸送を実施した[14]。丁三号輸送部隊任務終了後[15][16]、第32駆逐隊は第二水雷戦隊各隊・各艦と共に行動する[17]

11月上旬、第32駆逐隊は第二艦隊を基幹とする重巡洋艦部隊[注釈 3]と共にラバウルへ進出するが、同艦隊は米軍機動部隊艦上機の空襲に遭遇する[19]ラバウル空襲[20]。「涼波」は栗田部隊各艦と共にトラック泊地に後退した[21][22]。その後、「涼波」はラバウルに再進出するが、11月11日に米軍機動部隊艦上機による再度の空襲を受ける[23][24]。この対空戦闘において[25]魚雷と爆弾が命中し[26]、さらに自艦搭載魚雷の誘爆も重なり[27]、爆沈した[28]ブーゲンビル島沖航空戦[29]

艦歴

建造経緯

1939年度(④計画)仮称第126号艦として浦賀船渠で建造[30]1943年(昭和18年)2月5日、命名[3]。同日附で他の潜水艦・海防艦「福江」・特務艦とともに艦艇類別等級表に類別される[31]

6月25日、浦賀船渠に設置された艤装員事務所は事務を開始した[32]。 日本海軍は第三次ソロモン海戦時の駆逐艦「春雨」艦長だった神山昌雄中佐[33]を、7月1日付で艤装員長に任命する[34]。 7月27日、竣工[1][35]し、舞鶴鎮守府籍となる[36][37]。同日付で艤装員事務所は撤去[38]。神山中佐は艦長に補職される[注釈 4]

第十一水雷戦隊

竣工後、「涼波」は訓練部隊の第十一水雷戦隊[40][注釈 5]に編入された[6][42]横須賀で出動準備をおこなったのち、瀬戸内海に移動する[43]。内南洋部隊(第四艦隊)編入中の第6駆逐隊を除く[10][44]、第十一水雷戦隊(軽巡「龍田」、駆逐艦「」「若月」「涼波」「早波」「藤波」「」)は日本本土で訓練に従事する[45][46]

8月中旬、戦艦3隻(大和長門扶桑)を含む主力部隊がトラック泊地に進出することになり、第一艦隊司令長官清水光美中将が主力部隊の指揮をとった[47][48]。 8月17日、主力部隊[注釈 6]は呉を出撃、トラックに向かう[50]。「早波」駆逐艦長清水逸郎中佐が指揮する駆逐艦4隻(早波、涼波、藤波、霞)は、主力部隊航路前方の哨戒に従事した[51]

8月20日、日本海軍は夕雲型駆逐艦3隻(涼波、早波、藤波)により第32駆逐隊を編制した[9][52]。 初代司令は、駆逐艦「夕立」初代艦長[53]や駆逐艦「時津風」初代艦長[54]等を歴任した中原義一郎大佐[55]であった[56][注釈 7]

つづいて第十一水雷戦隊(響、涼波、藤波、早波)は、戦艦「山城[注釈 8]の内海西部回航を護衛することになった[59]。第十一水戦隊は駆逐艦「島風」(第二水雷戦隊所属)の電探訓練に協力しつつ[60][61]横須賀に移動し[62][46]、8月22日に到着した[63][46]。木村少将は、戦隊旗艦を「響」から「山城」に変更する[64]。 8月26日、山城回航部隊は横須賀を出発する[58][65]。翌日、山城隊は瀬戸内海に到着した[58][66]。その後も、第十一水雷戦隊は訓練をつづける[67][68]

9月30日付で、第32駆逐隊は第二水雷戦隊[69]に編入される[10][70][注釈 9]。 だが当面の間、引き続き第十一水雷戦隊の指揮を受けた[74]

第二水雷戦隊

9月下旬、連合艦隊は電令作第727号をもって戦艦「山城」、航空戦艦「伊勢」および第十一水雷戦隊により[75]、「丁三号輸送部隊」を編成した[59][76]。これは、日本陸軍の甲支隊[注釈 10]の一部をカロリン諸島ポナペ島へ輸送する任務である[80][81]。甲支隊の輸送は二回にわけて行われることになり[82]、丁三号輸送部隊は第二次輸送であった[14]。第二次進出部隊は、支隊本部の一部と陸軍兵約2000名[75]および同行の海軍第一通信隊であった[79]

10月15日、丁三号輸送部隊(山城、伊勢、龍田[注釈 11]、第32駆逐隊〈早波[注釈 12]、涼波、藤波〉)は佐伯および豊後水道を出撃する[83][84][15]。 10月20日、トラック諸島に到着し[85][86]、戦艦搭載の物件を各艦と輸送船団に移載する[15][87]。 第十一水雷戦隊(龍田〔旗艦〕[88]、早波、涼波、藤波)は三回次にわたり、ポナペ輸送を実施した[89][75]。任務終了後の10月28日、丁三号輸送部隊は任務を解かれた[15]。第十一水雷戦隊は空母「隼鷹」や「雲鷹」等と共に内地へ戻っていった[12][89][90]

一方、第32駆逐隊は同日付で第二水雷戦隊に復帰し[17][91]、遊撃部隊警戒隊所属となった[16]。第二水雷戦隊司令官と第二艦隊司令長官栗田健男中将は、それぞれ第32駆逐隊を視察した[92][93][注釈 13]

11月3日、二水戦の5隻(能代、早波、涼波、藤波、玉波)は[96]、栗田中将指揮下の重巡洋艦部隊[注釈 14]と共にトラック泊地を出撃し[98][18]、南東方面部隊遊撃部隊として北部ソロモン諸島周辺の敵艦隊撃滅を狙うことになった[99]。トラック泊地を出撃後、ニューブリテン島ラバウルに向け南下を開始する[100][101]。途中、「島風」[102][103]と「天津風」(第16駆逐隊司令)[103][104]が護衛していたタンカー2隻のうち、「日章丸」(昭和タンカー、10,526トン)がニューアイルランド島カビエン北方約180浬地点で空襲を受け[105]、損傷した[106]。重巡「鳥海」と「涼波」は「日章丸」救援の命令をうけ[105]、遊撃部隊から分離する[98][107]。第16駆逐隊司令島居威美大佐の指揮下に入った「涼波」は[108]、「日章丸」の救援を行った[109][110][注釈 15]。 このとき、ブーゲンビル島沖海戦[113]で損傷した第五戦隊(妙高羽黒)がラバウルを出発してトラック泊地にむかっており、羽黒が日章丸を曳航した[114]

ラバウル空襲で沈没

11月5日、大型空母「サラトガ(USS Saratoga, CV-3)」と軽空母「プリンストン (USS Princeton, CVL-23) 」を基幹とする第38任務部隊は、ラバウルに空襲を敢行した[115][注釈 16]。 同日朝6時頃にラバウルへ到着したばかりの遊撃部隊は[117]、大打撃を受けた[118][119]。「鳥海」と「涼波」は「日章丸」救援作業を終えてラバウルに向かう途中であったが、空襲を避けるためトラックに引き返すよう命じられ[120]、トラックに帰投する[22]。第二水雷戦隊と第十戦隊[121]および機関部に深刻な損傷をうけた重巡「摩耶」をのぞき[122]、ほかの重巡も順次トラック泊地へもどった[123][124]。「涼波」は間もなくトラック泊地を出発、11月9日ラバウルに到着した[110][125]。南東方面部隊遊撃部隊[126]と第三襲撃部隊は解消され[127]、二水戦(能代、大波、長波、巻波、早波、涼波、藤波)で第一襲撃部隊1SYB)が再編された[128]

この頃、11月5日の空襲に満足した南太平洋軍司令官ハルゼー大将は、更なる戦果拡大を狙って太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ大将に新手の空母任務部隊の派遣を要請していた[129][130]。ニミッツ大将はギルバート諸島方面の戦況をにらみつつ、第50.3任務群(司令官アルフレッド・E・モントゴメリー少将)を派遣することに決した[130][131]

11月11日早朝、アメリカ軍機動部隊による第2回目のラバウル空襲が行われた[23][132]。第38任務部隊はブーゲンビル島北方から、第50.3任務群は同島南方から、挟み撃ちの格好で攻撃隊を発進させた[129][130]。シャーマン隊は悪天候のため失敗したが、大型空母「エセックス (USS Essex, CV-9) 」「バンカーヒル (USS Bunker Hill, CV-17) 」 、軽空母「インディペンデンス (USS Independence, CVL-22) 」を基幹とする第50.3任務群はラバウル在泊艦艇に攻撃を加える[133][131]。またソロモン諸島基地より発進したB-24爆撃機も、ラバウルに空襲を敢行した[134]

これに対し、ラバウルから発進した日本軍偵察機が第50.3任務群を発見、海軍航空隊が攻撃にむかった[134][130]。ラバウル港や周辺では、第一襲撃部隊(第二水雷戦隊)と第二襲撃部隊(第三水雷戦隊[注釈 17]が待機し、ろ号作戦に備えていた[139]。通報をうけた二水戦はアメリカ軍機動部隊の空襲を予期し[140]、折からのスコールにまぎれてラバウル港外へ脱出しつつあった[141][142]。駆逐艦「五月雨」(第27駆逐隊)など、湾内に残っていた艦もいた[143]

「涼波」は北水道を通過し、ラバウル湾外に向け移動する[144][145]。 7時5分、タブルブル山(花吹山)方面から来襲した雷撃機を撃墜した[145][146]。間もなく雷撃機の一隊が「涼波」を襲撃し、投下された魚雷のうち3本を回避した[147]。だが残る1本が涼波の一番魚雷発射管付近に命中する[148]。爆発により左に傾き、また予備魚雷格納所から火災が発生した[145]。艦橋でも、艦長ふくめ戦死者が出た[147]。さらに急降下爆撃と機銃掃射を受け、爆弾一発が後部電信室付近に命中した[145][148]。「涼波」は艦尾で直接操舵を開始したが、駆逐艦「長波」と衝突しかけたという[149]。 7時21分頃、「涼波」では予備魚雷格納所からの火災が一番発射管に引火して搭載の魚雷が爆発、船体は両断されて7時22分頃に沈没した[110][145]。 艦長の神山昌雄中佐[150]や水雷長以下多数[注釈 18]が戦死。約100名[注釈 19]が駆逐艦「大波」に救助された[148][151]

「涼波」は1944年(昭和19年)1月5日付で夕雲型駆逐艦[152]、帝国駆逐艦籍[153]、第32駆逐隊[154]のそれぞれから除籍された。

歴代艦長

艤装員長
  1. 神山昌雄 中佐:1943年7月1日[34] - 1943年7月27日[39]
駆逐艦長
  1. 神山昌雄 中佐:1943年7月27日[39] - 1943年11月11日 戦死、同日付任海軍大佐[150]

脚注

注釈

  1. ^ 一部資料では7月31日竣工とする[2]
  2. ^ 丁三号輸送部隊の編成[11][12]
    • 戦艦:山城
    • 航空戦艦:伊勢
    • 軽巡洋艦:龍田
    • 第32駆逐隊:早波、涼波、藤波
  3. ^ 指揮官:第二艦隊司令長官栗田健男中将、第四戦隊(愛宕、高雄、鳥海、摩耶)、第七戦隊(鈴谷、最上)、第八戦隊(筑摩)、第二水雷戦隊[18]
  4. ^ 主要幹部は、新宮恒雄大尉(機関長)、永渕国二大尉(砲術長)、山田進中尉(水雷長)、伊藤実中尉(航海長)[39]
  5. ^ 当時の第十一水雷戦隊司令官は、木村進少将である[41]
  6. ^ 主力部隊の編成[49]
  7. ^ 中原義一郎大佐は、1943年(昭和18年)7月8日まで第24駆逐隊司令[57]として、ガダルカナル島攻防戦ニュージョージア島の戦いに参加していた。
  8. ^ 太平洋戦争中盤、山城はおおむね東京湾横須賀に停泊し[58]、海軍砲術学校・各種学校生徒・新兵の練習艦として使用されていた。
  9. ^ 当時の第二水雷戦隊司令官は高間完少将[71]であった[72]。第二水雷戦隊旗艦は軽巡「能代」である[73]
  10. ^ 日本陸軍甲支隊は、大陸命第837号(昭和18年9月6日)および大海指第274号(昭和18年9月9日)をもって第五十二師団隷下の歩兵第107聯隊を基幹とし[77]、さらに山砲兵第16聯隊および工兵第52聯隊第二中隊によって編成された[78]。長は山中萬次郎陸軍大佐(陸士27期、当時は歩兵第107聯隊長)[79]
  11. ^ 日本水雷戦史 1986, p. 296の丁三号輸送部隊編成表では、「旗艦竜田」と記載する。
  12. ^ 日本空母戦史 1977, p. 527の丁三号輸送部隊編成表では、「旗艦早波」と記載する。
  13. ^ 10月31日時点の第二水雷戦隊は軽巡「能代」(二水戦旗艦)と駆逐艦「島風」、第24駆逐隊海風涼風満潮)、第27駆逐隊時雨五月雨白露)、第31駆逐隊大波巻波長波)、第32駆逐隊(早波、涼波、玉波、藤波)で編制され、各地に分散して行動していた[94][95]
  14. ^ [97]
  15. ^ 「島風が」T四号輸送作戦第二輸送隊の特設巡洋艦「護国丸」の護衛にまわりラバウルに進出したとする資料がある[111]。「護国丸」の戦闘詳報では引き続き駆逐艦「浦風」に護衛されて11月4日正午頃ラバウル着としており[112]、「島風」は記載されていない。
  16. ^ 第38任務部隊の指揮官はフレデリック・シャーマン少将であった[116]
  17. ^ 11月11日、ラバウル所在の第二襲撃部隊[135][136][137][138]
    • 軽巡:夕張
    • 駆逐艦:風雲天霧
    • 旧式艦(夕凪、文月、水無月、卯月)
  18. ^ 209名戦死[149]、戦死者約100名[26][148]
  19. ^ 11月12日時点で106名[28]

出典

  1. ^ a b #S1807舞鎮日誌(1) p.86
  2. ^ 福井、日本駆逐艦物語 1993, p. 290など
  3. ^ a b #達昭和18年2月(1) pp.3-4
  4. ^ 歴群19、水雷戦隊II 1998, p. 94a涼波(すずなみ)
  5. ^ 山本ほか、秋月型 2015, p. 224a涼波(すずなみ)
  6. ^ a b #S1804十一水戦(2) p.35
  7. ^ 歴群51、真実の艦艇史(2) 2005, pp. 101–102その後の「龍田」の行動と修理
  8. ^ 山本ほか、秋月型 2015, p. 225.
  9. ^ a b #内令昭和18年8月(3) p.24
  10. ^ a b c #S1804十一水戦(4) p.4〔 備考 6dg(響缺)内南洋部隊ニ編入中/霞 九月一日附9dgニ編入/山雲 九月十五日附4dgニ編入/32dg 九月三十日附2sdニ編入 〕
  11. ^ 日本水雷戦史 1986, pp. 296a-297丁三号輸送(十月)
  12. ^ a b 歴群51、真実の艦艇史(2) 2005, p. 102.
  13. ^ 戦史叢書62 1973, pp. 435a-436甲支隊のポナペ進出
  14. ^ a b 戦史叢書6 1967, pp. 151–152甲支隊ポナペ島の配備を終わる
  15. ^ a b c d #S1804十一水戦(5) p.4
  16. ^ a b #S1806二水戦日誌(4) p.11
  17. ^ a b #S1806二水戦日誌(4) p.8
  18. ^ a b 戦史叢書96 1976, pp. 397–399ラバウル進出と逆上陸計画との絡み合い
  19. ^ 戦史叢書62 1973, pp. 425a-426遊撃部隊のラバウル進出直後の被害
  20. ^ 奥宮、ラバウル 2001, p. 531a付録、昭和18年11月5日
  21. ^ 日本水雷戦史 1986, pp. 386a-388米空母機の空襲(十一月五日)
  22. ^ a b 戦史叢書96 1976, pp. 400a-401重巡部隊のトラック帰投
  23. ^ a b 奥宮、ラバウル 2001, p. 531b付録、昭和18年11月11日
  24. ^ 日本水雷戦史 1986, pp. 390a-391ラバウル、再度空襲さる
  25. ^ #S18.11(上)経過概要 p.33
  26. ^ a b #S1806二水戦日誌(6) pp.1-2
  27. ^ 日本水雷戦史 1986, pp. 391a-393水戦に多大の被害
  28. ^ a b 高松宮日記7 1997, p. 93.
  29. ^ 戦史叢書58 1972, pp. 200–206五 ブーゲンビル島沖航空戦
  30. ^ 福井、日本駆逐艦物語 1993, p. 290.
  31. ^ #内令昭和18年2月(2) pp.30-32
  32. ^ 昭和18年7月3日(土)海軍公報(部内限)4430号 p.2」 アジア歴史資料センター Ref.C12070432200 
  33. ^ 大正12年07月16日 官報第3288号 - 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2025年1月15日閲覧。
  34. ^ a b 昭和18年7月1日(発令7月1日付)海軍辞令公報(部内限)第1162号 p.4神山補職、」 アジア歴史資料センター Ref.C13072092000 
  35. ^ #S1804十一水戦(2) p.35
  36. ^ #内令昭和18年7月(5)p.50および#内令昭和18年7月(6) p.1
  37. ^ #S1807舞鎮日誌(1) p.86
  38. ^ 昭和18年7月31日(土)海軍公報(部内限)4454号 p.48」 アジア歴史資料センター Ref.C12070432600 
  39. ^ a b c 昭和18年7月27日(発令7月27日付)海軍辞令公報(部内限)第1177号 pp.39-40」 アジア歴史資料センター Ref.C13072092200 
  40. ^ #S1804十一水戦(2) p.24
  41. ^ 日本水雷戦史 1986, pp. 294–296第十一水戦の創立
  42. ^ #S1807舞鎮日誌(1) p.87〔 廿七日一六三一總長(宛略)二十七日附 戰時編制中改定 涼波ヲ第十一水雷戰隊ニ編入 〕
  43. ^ #S1804十一水戦(2) pp.35-36
  44. ^ #S1804十一水戦(3) pp.3-4〔 備考 6dg(響缺)内南洋部隊ニ編入中 響ハ八月三日附北方部隊ヨリ復帰ス 〕
  45. ^ #S1804十一水戦(2) p.26〔 (四)麾下艦船ノ行動 〕
  46. ^ a b c #S1804十一水戦(3) p.5〔 (四)麾下艦船ノ行動 〕
  47. ^ #S18.08(中)経過概要 p.25
  48. ^ #S1806二水戦日誌(2) p.4
  49. ^ #S1806二水戦日誌(2) p.51
  50. ^ #S1806呉防戦日誌(4) pp.15, 53
  51. ^ #S1804十一水戦(3) pp.18, 20
  52. ^ #S1804十一水戦(3) pp.22-23
  53. ^ 昭和11年11月04日 官報第2953号 - 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2025年1月15日閲覧。
  54. ^ 昭和15年12月16日(発令12月15日付)海軍辞令公報(部内限)第569号 p.16」 アジア歴史資料センター Ref.C13072079900 
  55. ^ 大正9年07月17日 官報第2388号 - 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2025年1月15日閲覧。
  56. ^ 昭和18年8月21日(発令8月20日付)海軍辞令公報(部内限)第1196号 p.2」 アジア歴史資料センター Ref.C13072092600 
  57. ^ 昭和18年7月10日(発令7月8日付)海軍辞令公報(部内限)第1069号 p.11」 アジア歴史資料センター Ref.C13072092100 
  58. ^ a b c 写真 日本の軍艦1 1989, p. 190.
  59. ^ a b 日本水雷戦史 1986, p. 296b.
  60. ^ #S1806二水戦日誌(2) p.6
  61. ^ #S1804十一水戦(3) p.36
  62. ^ #S1804十一水戦(3) p.23
  63. ^ #S1804十一水戦(3) p.24
  64. ^ #S1804十一水戦(3) p.26
  65. ^ #S1804十一水戦(3) p.27
  66. ^ #S1804十一水戦(3) p.27
  67. ^ #S1804十一水戦(3) p.37
  68. ^ #S1804十一水戦(4) p.5, 28
  69. ^ 日本水雷戦史 1986, p. 298.
  70. ^ #S1806二水戦日誌(3) p.13〔 (四)麾下艦船部隊ノ行動 〕
  71. ^ 大正2年12月20日 官報第420号。国立国会図書館デジタルコレクションコマ3高間補少尉候補生《501上段》
  72. ^ #S1806二水戦日誌(3) p.14
  73. ^ 写真 日本の軍艦9 1990, p. 104.
  74. ^ #S1806二水戦日誌(3) p.10〔 (8)32dg(早波涼波藤波)三十日附2sdニ編入同日附YBヨリ除カレ丁三號輸送部隊ニ編入引續キ11sd司令官ノ指揮ヲ受ク 〕
  75. ^ a b c 戦史叢書62 1973, p. 435b.
  76. ^ #S1804十一水戦(5) p.3
  77. ^ 戦史叢書13 1968, p. 487a-488一 甲支隊のポナペ島進出と主力の転進
  78. ^ 戦史叢書06 1967, pp. 147–148第五十二師団の動員と甲支隊の派遣
  79. ^ a b 戦史叢書13 1968, p. 488.
  80. ^ 戦史叢書62 1973, pp. 395a-396甲支隊の派遣及び第五十二師団の派遣準備
  81. ^ 日本空母戦史 1977, pp. 525–526.
  82. ^ 戦史叢書6 1967, pp. 148–149.
  83. ^ 高松宮日記7 1997, pp. 29–30.
  84. ^ #S1804十一水戦(5) p.21
  85. ^ #S1804十一水戦(5) p.6〔 (四)麾下艦船ノ行動 〕
  86. ^ #S1804十一水戦(5) p.28
  87. ^ #S1804十一水戦(5) pp.24-27
  88. ^ #S1804十一水戦(5) p.30
  89. ^ a b 日本水雷戦史 1986, p. 297.
  90. ^ 日本空母戦史 1977, pp. 527b-528.
  91. ^ #S1804十一水戦(5) p.39
  92. ^ #S1806二水戦日誌(4) p.84
  93. ^ #S1806二水戦日誌(4) p.84
  94. ^ #S1806二水戦日誌(4) p.11
  95. ^ #S1806二水戦日誌(4) p.12
  96. ^ #S1806二水戦日誌(5) p.17〔 (四)麾下艦船部隊ノ行動 〕、同部隊戦時日誌 p.25〔 二日(司令官)2sd(宛略)機密二水戰命令作第一〇七号中島風ヲ削除シ左ノ通改ム 三.直衛区分 第一群 能代(0) 涼波(11) 藤波(13)/第二群 早波 玉波/六 探知 島風ヲ除キ三時間交代トス 〕
  97. ^ #第八戦隊日誌(7) pp.40-41
  98. ^ a b 日本水雷戦史 1986, p. 385.
  99. ^ #南東方面艦隊日誌(2) p.43(別紙第五 南東方面部隊兵力部署改訂)〔 一一.三|YB〔 4S 2Sd(能代、32dg、島風) 7S(鈴谷 最上) 8S(筑摩)〕| |南東方面部隊遊撃部隊|主要任務 敵艦隊輸送船団撃滅 〕
  100. ^ 戦史叢書62 1973, p. 426.
  101. ^ #S1806二水戦日誌(5) p.4
  102. ^ #S1806二水戦日誌(5) p.24
  103. ^ a b #S1806二水戦日誌(6) pp.27-28
  104. ^ #S1806二水戦日誌(5) pp.25-26
  105. ^ a b 戦史叢書96 1976, p. 399b.
  106. ^ #S1806二水戦日誌(5) p.14、#S18.11(上)経過概要 p.11
  107. ^ #S1806二水戦日誌(5) p.26、#S1806二水戦日誌(6) p.29
  108. ^ #S1806二水戦日誌(5) p.26
  109. ^ #S1806二水戦日誌(5) p.5
  110. ^ a b c #S1806二水戦日誌(5) p.11
  111. ^ #S18.11(上)経過概要 p.12(昭和18年11月4日)
  112. ^ #S1808護国丸日誌(4) pp.4-5(昭和18年11月3日~4日経過概要)
  113. ^ 戦史叢書58 1972, pp. 182–183ブーゲンビル島沖海戦
  114. ^ #S17.12第五戦隊日誌(4) pp.22-23, 25
  115. ^ 奥宮、ラバウル 2001, pp. 389–390.
  116. ^ ニミッツ 1962, p. 185.
  117. ^ #S18.11(上)経過概要 pp.15-16
  118. ^ 日本水雷戦史 1986, p. 387.
  119. ^ 戦史叢書96 1976, pp. 399a-400米空母機による第一次被空襲と被害―十一月五日
  120. ^ #S1806二水戦日誌(5) p.30
  121. ^ #S18.11(上)経過概要 p.22
  122. ^ 重巡摩耶 2002, pp. 191–192.
  123. ^ 歴群64、睦月型 2008, p. 138.
  124. ^ #S1806二水戦日誌(5) p.31
  125. ^ #S1806二水戦日誌(5) pp.44-45
  126. ^ #南東方面艦隊日誌(2) p.43
  127. ^ #南東方面艦隊日誌(2) p.43
  128. ^ #南東方面艦隊日誌(2) p.43
  129. ^ a b 日本水雷戦史 1986, p. 390b.
  130. ^ a b c d 戦史叢書96 1976, pp. 413–414.
  131. ^ a b ニミッツ 1962, p. 186.
  132. ^ 戦史叢書96 1976, pp. 414a-415邀撃作戦と艦艇の被害
  133. ^ 日本水雷戦史 1986, p. 391b.
  134. ^ a b 戦史叢書58 1972, p. 202第三次ブーゲンビル島沖航空戦
  135. ^ #S18.07三水戦日誌(5) p.9
  136. ^ #南東方面艦隊日誌(2) p.43
  137. ^ #S18.07三水戦日誌(5) pp.15-19
  138. ^ #S18.07三水戦日誌(5) pp.20-24
  139. ^ #S1806二水戦日誌(6) pp.40-41
  140. ^ #S1806二水戦日誌(6) p.42
  141. ^ 戦史叢書96 1976, p. 414b.
  142. ^ #S1806二水戦日誌(6) p.43
  143. ^ 五月雨出撃す 2010, pp. 266–267(昭和18年)11月11日記事
  144. ^ #S1806二水戦日誌(5) p.46
  145. ^ a b c d e #S1806二水戦日誌(5) pp.49-50
  146. ^ #S1806二水戦日誌(6) p.46
  147. ^ a b 日本水雷戦史 1986, p. 392.
  148. ^ a b c d #S1806二水戦日誌(6) p.47
  149. ^ a b 日本水雷戦史 1986, p. 393.
  150. ^ a b 昭和19年1月10日(発令昭和18年11月11日付)海軍辞令公報(部内限)第1294号 p.20」 アジア歴史資料センター Ref.C13072095200 
  151. ^ #S1806二水戦日誌(6) p.50
  152. ^ #内令昭和19年1月(1) p.47
  153. ^ #内令昭和19年1月(2) p.1
  154. ^ #内令昭和19年1月(2), p.14

参考文献

  • 池田清『重巡摩耶』学習研究社〈学研M文庫〉、2002年1月(原著1986年)。ISBN 4-05-901110-X 
  • 奥宮正武『ラバウル海軍航空隊』学習研究社〈学研M文庫〉、2001年3月(原著1992年)。ISBN 4-05-901045-6 
  • 海軍歴史保存会編『日本海軍史』第7巻、発売:第一法規出版、1995年。
  • 木俣滋郎『日本空母戦史』図書出版社、1977年7月。ISBN 978-4809900389 
  • 木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年。ISBN 978-4809901089 
  • 須藤幸助『駆逐艦「五月雨」出撃す』光人社〈光人社NF文庫〉、2010年1月(原著1956年)。ISBN 978-4-7698-2630-9 
  • 高松宮宣仁親王『高松宮日記 第七巻 昭和十八年十月一日~昭和十九年十二月三十一日』中央公論社、1997年7月。ISBN 4-12-403397-4 
  • C. W. ニミッツ、E. B. ポッター『ニミッツの太平洋海戦史』恒文社、1962年12月。ISBN 978-4770407573 
  • 福井静夫『日本駆逐艦物語』光人社〈福井静夫著作集 軍艦七十五年回想記 第5巻〉、1993年1月。ISBN 4-7698-0611-6 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 編『戦史叢書6 中部太平洋陸軍作戦(1) マリアナ玉砕まで朝雲新聞社、1967年7月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 編『戦史叢書13 中部太平洋陸軍作戦(2) ペリリュー・アンガウル・硫黄島』朝雲新聞社、1968年2月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 編『戦史叢書58 南太平洋陸軍作戦(4) フィンシハーヘン・ツルブ・タロキナ』朝雲新聞社、1972年8月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 編『戦史叢書62 中部太平洋方面海軍作戦(2) 昭和十七年六月以降』朝雲新聞社、1973年2月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 編『戦史叢書96 南東方面海軍作戦(3) ガ島撤収後』朝雲新聞社、1976年8月。 
  • 『丸』編集部 編『写真 日本の軍艦1 戦艦I』光人社、1989年7月。ISBN 4-7698-0451-2 
  • 『丸』編集部 編『写真 日本の軍艦9 軽巡II』光人社、1990年3月。ISBN 4-7698-0458-X 
  • 山本平弥 ほか『秋月型駆逐艦 <付・夕雲型・島風・丁型>』潮書房光人社、2015年3月。ISBN 978-4-7698-1584-6 
  • 『歴史群像』編集部 編『水雷戦隊II 陽炎型駆逐艦』学習研究社〈歴史群像 太平洋戦史シリーズ19〉、1998年8月。ISBN 4-05-601918-5 
  • 『歴史群像』編集部 編『帝国海軍 真実の艦艇史2』学習研究社〈歴史群像 太平洋戦史シリーズ 51〉、2005年8月。ISBN 4-05-604083-4 
  • 歴史群像編集部編『睦月型駆逐艦』学習研究社〈歴史群像 太平洋戦史シリーズ 64〉、2008年5月。ISBN 978-4-05-605091-2 
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『昭和18年1月~8月 達/2月(1)』。JACAR:C12070118200 
    • 『昭和18年1月~4月内令1巻/2月(2)』。JACAR:C12070175400 
    • 『昭和18年7月~8月内令3巻/7月(5)』。JACAR:C12070179300 
    • 『昭和18年7月~8月内令3巻/7月(6)』。JACAR:C12070179400 
    • 『昭和18年7月~8月内令3巻/8月 (3)』。JACAR:C12070179700 
    • 『自昭和19年1月至昭和19年7月内令/昭和19年1月(1)』。JACAR:C12070193800 
    • 『自昭和19年1月至昭和19年7月内令/昭和19年1月(2)』。JACAR:C12070193900 
    • 『昭和18年7月1日~昭和18年7月31日 舞鶴鎮守府戦時日誌(1)』。JACAR:C08030356500 
    • 『昭和18年6月1日~昭和18年11月30日 呉防備戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。JACAR:C08030368400 
    • 『昭和18年4月1日~昭和18年11月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(2)』。JACAR:C08030126100 
    • 『昭和18年4月1日~昭和18年11月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(3)』。JACAR:C08030126200 
    • 『昭和18年4月1日~昭和18年11月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(4)』。JACAR:C08030126300 
    • 『昭和18年4月1日~昭和18年11月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(5)』。JACAR:C08030126400 
    • 『昭和17年1月12日~昭和19年1月1日 大東亜戦争戦闘詳報戦時日誌 第8戦隊(7)』。JACAR:C08030048800 
    • 『昭和17年12月1日~昭和18年4月16日 南東方面艦隊戦時日誌戦闘詳報 第2段作戦(2)』。JACAR:C08030026200 
    • 『昭和17年12月1日~昭和18年11月2日 第5戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。JACAR:C08030045000 
    • 『昭和18年6月14日~昭和18年11月11日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。JACAR:C08030101100 
    • 『昭和18年6月14日~昭和18年11月11日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。JACAR:C08030101200 
    • 『昭和18年6月14日~昭和18年11月11日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。JACAR:C08030101300 
    • 『昭和18年6月14日~昭和18年11月11日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)』。JACAR:C08030101400 
    • 『昭和18年6月14日~昭和18年11月11日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(6)』。JACAR:C08030101500 
    • 『昭和18年8月1日~昭和18年11月30日 特設巡洋艦護国丸戦時日誌 南海守備隊輸送 丁2.4号輸送(4)』。JACAR:C08030654200 
    • 『昭和18.8.15~昭和18.12.31 太平洋戦争経過概要 その6(防衛省防衛研究所)/第三段作戦 18年8月15日~18年8月26日』。JACAR:C16120636700 
    • 『昭和18.8.15~昭和18.12.31 太平洋戦争経過概要 その6(防衛省防衛研究所)/第三段作戦 18年11月1日~18年11月15日』。JACAR:C16120637400 

関連項目

 

Prefix: a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9

Portal di Ensiklopedia Dunia