沖波 (駆逐艦)
沖波(おきなみ)は[6]、日本海軍の駆逐艦[7]。夕雲型駆逐艦(一等駆逐艦)の14番艦である。 概要一等駆逐艦沖波(おきなみ)は[8]、日本海軍が太平洋戦争で運用した駆逐艦[9]。 舞鶴海軍工廠で、1942年(昭和17年)8月から[10]、1943年(昭和18年)12月上旬にかけて建造された[3][11]。 竣工後、訓練部隊の第十一水雷戦隊に所属した[12]。 1944年(昭和19年)2月10日、夕雲型3隻(沖波、岸波、朝霜)は第二水雷戦隊隷下の第31駆逐隊に編入される[13][注 1]。第31駆逐隊は船団護衛任務に従事したあと、5月下旬までにタウイタウイ泊地へ集結した[14][15]。 6月中旬、沖波は軽巡能代等[注 2]と共に大和型戦艦2隻(大和、武蔵)を護衛して渾作戦に従事した[16][17]。 続いて小沢機動部隊や別働の31駆僚艦に合流してマリアナ沖海戦に参加した[6]。敗北後、一度内地に帰投[16]。7月上旬、第31駆逐隊は遊撃部隊(指揮官栗田健男中将、第二艦隊司令長官)を護衛して日本本土を出撃、リンガ泊地に進出した[18]。その後はリンガ泊地で訓練に従事する[19]。 10月中旬以降の捷一号作戦に伴うレイテ沖海戦で、第31駆逐隊は第一遊撃部隊(通称栗田艦隊)に所属[14]。10月25日のサマール沖海戦で重巡洋艦鈴谷が沈没すると[20][21]、沖波は単艦で鈴谷乗組員多数を救助した[22]。 その後、沖波は姉妹艦早霜の救援を行い[23]、続いて重巡洋艦熊野の護衛に従事、同艦と共にマニラへ帰投した[24]。 レイテ沖海戦後、第31駆逐隊は第二遊撃部隊(指揮官志摩清英中将、第五艦隊司令長官)の指揮下に入る[25][26]。 第一水雷戦隊司令官木村昌福少将(第一水雷戦隊旗艦「霞」)の指揮下で多号作戦に従事した(第二次多号作戦部隊)。 11月5日、沖波はマニラ在泊中に空襲を受けて損傷(同時に、沈没した重巡洋艦那智[20] を救援)[27]。 同港で応急修理中の11月13日、沖波はマニラ大空襲により停泊中の各艦[注 3]と共に沈没した[28](大破着底状態)[29]。12月31日、沖波は放棄された[4]。残骸は戦後になり浮揚・解体された。 艦歴完成まで夕雲型駆逐艦の沖波(おきなみ)は1942年度(マル急計画)仮称第342号艦として舞鶴海軍工廠で建造されることになり、1942年(昭和17年)8月5日に起工した[1][10]。 1943年(昭和18年)5月25日、沖波は姉妹艦(岸波、朝霜)や海防艦2隻(御蔵、平戸)、標的艦波勝等と共に命名された[8]。3隻(沖波、岸波、朝霜)は同日附で一等駆逐艦夕雲型に登録[30]。 7月18日、沖波は進水した[2][31]。 11月6日、日本海軍は鴻型水雷艇鵲水雷艇長[32]、初春型駆逐艦初春艦長[32][33][34] 等を歴任した牧野坦中佐(海兵51期)[35] を、沖波艤装員長に任命した[36]。 11月10日、舞鶴海軍工廠に艤装員事務所を設置する[37]。 沖波は12月10日に竣工[3]。 沖波艤装員事務所は撤去された[38]。牧野艤装員長も、正式に沖波駆逐艦長(初代)となった[39]。舞鶴鎮守府籍となる[40]。 就役後12月10日の竣工と共に、沖波は訓練部隊の第十一水雷戦隊(司令官高間完少将〈前職第二水雷戦隊司令官。12月15日発令、12月27日着任〉[41]、司令官代理〈12月25日退任〉小川莚喜大佐・海軍兵学校46期[42])に編入される[12]。 瀬戸内海に回航され、第十一水雷戦隊各艦(第二戦隊〈山城、伊勢、日向〉、訓練部隊〈龍田、岸波、沖波、朝霜〉)や修理復帰艦艇(不知火、春雨)等と訓練を受けた[43][44][45]。 12月29日、燧灘で十一水戦に春雨(二水戦、第27駆逐隊)が合同する[46]。駆逐艦4隻(時雨、春雨、沖波、朝霜)は扶桑型戦艦山城を護衛して呉を出発する[47]。31日、横須賀回航部隊は横須賀に到着した[48][49]。 1944年(昭和19年)1月4日、沖波と朝霜は内海西部に戻る[50][51]。以降、第十一水雷戦隊は臨時編入艦と共に内海西部で訓練に従事する[52]。 1月下旬、サイパン島より横須賀へ向かっていた大鷹型航空母艦雲鷹(1月19日、アメリカ潜水艦の雷撃で損傷)と護衛艦艇は悪天候のため燃料残量が乏しくなり、またアメリカの潜水艦に狙われて窮地に陥った[53][54]。 1月29日、沖波と岸波は桂島泊地を出撃、小笠原諸島周辺を航行中の雲鷹隊救援に向かった[55]。 2月5日、雲鷹隊に合流した[56]。7日、燃料補給を終えた各艦(高雄、潮、曙、初霜)は雲鷹隊に再合流した[57][58]。 同日夜、重巡洋艦高雄以下の雲鷹護衛部隊は横須賀に到着して、任務を終えた[59][60][61]。 第31駆逐隊2月10日[13]、夕雲型駆逐艦3隻(沖波、岸波[15]、朝霜[62])は第二水雷戦隊(司令官早川幹夫少将・海兵44期[41]、旗艦能代)隷下の第31駆逐隊に編入された[63][64][65]。 第31駆逐隊は「長波」1隻となっており、夕雲型駆逐艦4隻(長波、岸波、沖波、朝霜)で再編された[13][66]。 駆逐隊司令福岡徳治郎大佐(海兵48期[66]、前職第19駆逐隊司令)[67] も任命されたばかりである[68]。 2月26日、第31駆逐隊(岸波、沖波、朝霜)は宇品を出港し[69][70]、マリアナ諸島へ移動する第29師団(通称号「雷」師団長高品彪陸軍中将、歩兵第18連隊〈聯隊長門間健太郎大佐〉、歩兵第38連隊〈聯隊長末長常太郎大佐〉、歩兵第50連隊〈聯隊長緒方敬志大佐〉、師団戦車隊・補給部隊等)[71][72] の陸軍兵士[73] と装備品を乗せた安芸丸(日本郵船、11,409トン)、東山丸(大阪商船、8,666トン)、埼戸丸(戦史叢書では「崎戸丸」と表記[74]、日本郵船、9,247トン)の3隻の優秀貨客船による緊急輸送作戦に従事した[64][75]。 船団は2月29日未明、米潜水艦に襲撃された[75][76]。 雷撃により「岬戸丸」が沈没[69][注 4]。 さらに「安芸丸」が損傷した[69][注 5]。 「沖波」は健在船(安芸丸、東山丸)を護衛してグアム島およびサイパン島へ先行する[78]。現場に残った「朝霜」は、爆雷攻撃により米潜水艦を撃沈した[64]。この米潜水艦はトラウトだった[75][80]。 3月4日、船団はグァム島に到着して第29師団司令部と歩兵第38聯隊を揚陸し、翌日にはサイパン島で歩兵第50聯隊が上陸した[注 6][78]。崎戸丸生存者を収容した各艦はサイパン島へ移動し、3月6日に歩兵第18聯隊生存者を揚陸した[76][78]。3月15日、31駆は横須賀に帰投した[16][65]。 3月20日、第31駆逐隊(岸波、沖波、朝霜)はトラック諸島行きの東松三号特別船団、輸送船3隻(浅香丸、山陽丸、さんとす丸)を護衛して館山を出航する[81][82]。船団は28日にトラック泊地に到着した[82][83]。その後も、タンカー船団の護衛に従事した[16]。 5月中旬以降、第31駆逐隊は前進根拠地のタウイタウイ方面にあり、同方面で対潜警戒に従事した[40][84]。 6月9日、タウイタウイ泊地で対潜掃蕩作戦に従事中の駆逐艦4隻(磯風、谷風、島風、早霜)が[85]、アメリカ潜水艦ハーダーに襲撃され[86]、同艦の雷撃により谷風は轟沈した[87][88]。急遽出動した沖波は、谷風の生存者を救助した[89]。 →詳細は「渾作戦」を参照
この頃、ビアク島を巡って日本軍と連合軍間で攻防が繰り広げられていた(ビアク島の戦い)[90][91]。日本海軍は渾作戦を発動してビアク島救援作戦を展開していたが、過去二度にわたる作戦は目的を達しえなかった[92][93]。 そこで、大和型戦艦2隻なども投入して第三次渾作戦を敢行[94]、上陸船団撃破と機動部隊の誘い出しを図る事となった[95]。 第一戦隊司令官宇垣纏海軍中将(海兵40期)が率いる渾部隊は[96]、宇垣司令官直率の攻撃隊(第一戦隊〈大和、武蔵〉[97]、第五戦隊〈妙高、羽黒。2隻ともバチャン泊地にて先行待機中〉[98]、水雷戦隊〈能代、島風、沖波、朝雲、山雲、野分〉)、第一輸送隊(重巡〈青葉〉、軽巡〈鬼怒〉、駆逐艦4隻)、第二輸送隊(津軽)等という戦力を揃えた[95]。 6月10日[17]、攻撃部隊(戦艦〈大和、武蔵〉[99]、軽巡〈能代〉[100]、護衛艦艇〈島風、沖波、山雲、野分[101]〉)はタウイタウイを出撃した[102][103]。 直後にアメリカ潜水艦ハーダーに発見された[104][105]。これと同時に日本艦隊もハーダーの潜望鏡を発見し、沖波はハーダーを攻撃するため部隊から分離した[96][99]。 ハーダーはこの一週間の間にタウイタウイ周辺で駆逐艦水無月(6月6日)[106]、早波(6月7日)[107]、谷風(6月9日、詳細前述)を立て続けに撃沈しており[88]、今回も沖波の真正面から魚雷を発射した[108][109]。 二つの爆発音が聞こえ、ハーダー側は沖波を撃沈したと判断したが[110]、沖波は艦首7mで魚雷を回避[109]。逆に爆雷攻撃でハーダーを追い払った[111]。ただし大和座乗の宇垣中将以下日本側もハーダーを撃沈したと判断し[96]、沖波の乗組員は「谷風の仇を討った」と思っていた[109]。 6月12日、大和以下攻撃部隊はハルマヘラ島バチャン泊地に到着した[17][112]。同地で第五戦隊他と合流する[102][113]。 作戦開始を待ったが、6月13日になってサイパン島に対する艦砲射撃が開始されるに到り[114]、戦局は急展開する[115][116]。 連合艦隊は渾作戦の中止と「あ号作戦決戦用意」を発令する[116][117]。 攻撃部隊[注 7]は同日夜にバチャンを急遽出撃する[118][119]。 第三艦隊司令長官小沢治三郎中将(海兵37期)率いる第一機動艦隊(旗艦大鳳)に合流すべく急行した[120][116]。 →詳細は「マリアナ沖海戦」を参照
6月19日-20日のマリアナ沖海戦における第31駆逐隊は、前衛部隊(指揮官栗田健男第二艦隊長官〔旗艦愛宕〕)に所属して米軍と交戦した(艦隊編成と経過については、当該記事を参照)。 6月19日朝、栗田艦隊が第一航空戦隊(甲部隊)攻撃隊を誤射した際には[121][122]、沖波のみが対空砲火を開かなかったという[123]。実際には武蔵等[124]、沖波以外にも射撃していない艦がいた。 6月20日の対空戦闘で、栗田艦隊は損傷艦数隻(千代田、榛名、摩耶)を出したが、沈没艦はいなかった[125][126]。 敗北後、日本艦隊は中城湾(沖縄本島)へ移動した。宿毛湾(宿毛湾泊地)から岸波と沖波は重巡摩耶を護衛して横須賀へ移動、6月30日に到着した[127][128]。摩耶は横須賀で修理と整備をおこなった[129][130]。 7月上旬、日本海軍は遊撃部隊主力をリンガ泊地に進出させることにした[18]。 7月8日-9日、遊撃部隊主隊(指揮官栗田健男中将、第二艦隊司令長官)は臼杵湾を出動[131][132][133]。輸送物件の関係から、甲部隊[注 8]と乙部隊[注 9]という編成だった[132]。第31駆逐隊は甲部隊所属だった[132]。 7月10日午後、遊撃部隊主隊は中城湾に到着した[133]。沖縄の第三十二軍(司令官渡辺正夫中将)に対する輸送任務を行う。また第31駆逐隊は戦艦武蔵から燃料補給を受けた[133]。 同日夕刻、甲部隊は沖縄を出発、リンガ泊地に直接向かった(乙部隊は12日出発)[134][135]。暴風雨に遭遇して駆逐艦五月雨が一時行方不明になったが、特に異状なく7月16日シンガポール(一部はリンガ泊地直行)到着[134]。 ほどなく乙部隊[135] や摩耶[129][136]もリンガ泊地に進出し、第一遊撃部隊(8月1日附改定)は訓練に励んだ[19][137]。 8月中旬、31駆はシンガポール~クチン(ボルネオ島)間の船団護衛任務に従事した[138]。 レイテ沖海戦10月18日、捷一号作戦発動に伴って第二艦隊司令長官栗田健男中将(海兵38期)が指揮する第一遊撃部隊はリンガ泊地から出動し[139]、ブルネイ湾で補給の後、10月22日朝に出撃した[129][140]。 10月23日未明、パラワン水道において栗田艦隊は米潜水艦により大打撃を受ける[141][142]。第二艦隊旗艦の重巡洋艦愛宕は、アメリカ潜水艦ダーターの雷撃で沈没[143][144]。 重巡洋艦摩耶がデイスの雷撃で沈没[145][146]。 重巡洋艦高雄がダーターの雷撃で大破して航行不能となった[147]。 愛宕被雷時、二水戦3隻(能代、沖波、長波)は愛宕-高雄-鳥海-長門の左側約2kmほどを航行していた[148]。 第31駆逐隊2隻(朝霜、長波)は高雄(航行不能、復旧作業中)の護衛を命じられ[149][150]、栗田艦隊から離脱した[151][152]。 暫定的に沖波と岸波のみになった第31駆逐隊は、第二水雷戦隊各艦と共にシブヤン海へ向かった[153]。 10月24日のレイテ沖海戦(シブヤン海空襲)で、第31駆逐隊(岸波、沖波)は栗田長官(大和座乗)直率の第一部隊第一戦隊[注 10]としてアメリカ軍機と交戦した[154]。 栗田艦隊は、武蔵沈没[155]、3隻損傷離脱(妙高、浜風、清霜)という損害を受けた[156]。 翌10月25日朝[157]、第一遊撃部隊(栗田艦隊)はサマール島沖で米軍機動部隊(護衛空母部隊)を追撃する(サマール島沖海戦)[158][159]。 第二水雷戦隊の戦果は僅少だった[160]。 このサマール島沖海戦において第七戦隊旗艦(司令官白石万隆少将。先に旗艦熊野が被雷したため、鈴谷に旗艦変更)[21][161] の重巡洋艦鈴谷は至近弾により魚雷発射管が炎上して爆発を起こし[162]、瀕死の状態となった[163][164]。 第七戦隊司令官白石万隆少将は健在の重巡洋艦利根(艦長黛治夫大佐)を呼び寄せ[22]、利根から派遣されたカッターボートを使用して鈴谷から脱出する(利根に第七戦隊旗艦変更)[165][166]。 同時に沖波と雪風に対し鈴谷生存者・利根短艇乗員の救助収容を命じたが[167]、第十戦隊・第17駆逐隊所属の雪風にはすでに第十戦隊司令官木村進司令官(軽巡矢矧座乗)より原隊復帰命令が出されており、姉妹艦と合流して去っていた[168]。 単艦行動となった沖波は、波浪と空襲に悩まされながら約六時間にわたり鈴谷乗組員救助をおこなった[165][169]。 沈まない場合は雷撃処分も下令されていたが[22][170]、鈴谷は13時20分に沈没した[171]。 沖波は空襲を受けつつ[162][172]、鈴谷の艦長寺岡正雄大佐以下412名[172](戦史叢書では415名)[22] の乗員を救助した。取り残された利根カッターボート乗組員11名(田中春雄中尉含め12名)も収容したが[166]、その後の対空戦闘で4名が戦死した[173]。 しかし、救援を行っているうちに栗田艦隊主力は遠くへ去って単艦となり[22]、鈴谷艦長と相談の上、日没をもって救助活動を中止[174]。沖波単独で深夜にサンベルナルジノ海峡を通過した[172]。 翌10月26日、ミンドロ島東方海域で第38任務部隊(マーク・ミッチャー中将)の艦載機の空襲を受け、先行していた栗田艦隊本隊では軽巡能代(第二水雷戦隊旗艦)が沈没した[175][176]。本隊から遅れていた沖波はのべ40機に襲撃され、至近弾で舵を損傷したものの[177]、鈴谷乗組員・利根乗組員の協力を得て空襲を切り抜けた[178][179]。 同日、沖波はセミララ島に座礁した夕雲型姉妹艦早霜(第2駆逐隊所属、舞鶴建造艦)を発見し接近した[23]。燃料に海水が混じったため早霜の使用可能燃料は5トン程度しかなく、沖波も余裕はなかったが横付して補給を開始する[23]。 この時、沖波と早霜は夕雲型姉妹艦藤波(第32駆逐隊)が約10km程沖合を航行するのを発見した[180]。 だが藤波は空襲を受け、2隻の目前で轟沈した[180]。藤波は25日(サマール沖海戦)で沈没した重巡鳥海乗組員を救助していたが、鳥海・藤波とも1人の生存者もいなかった[180][181]。またアメリカ軍機も2隻を襲ってきたため、沖波は横付を離して回避に転じる[23]。沖波は早霜を残してコロン湾へ向かった[182]。 10月27日、第十六戦隊(鬼怒、浦波)救援のため出動した駆逐艦不知火(志摩艦隊、第一水雷戦隊所属)はセミララ島近海で擱座した早霜を発見、不知火は早霜を救援中にアメリカ軍機動部隊艦載機の攻撃を受けて撃沈された[183][184]。 一方、沖波はコロン湾を単艦で出港した重巡洋艦熊野[注 11][24] と合流した[185][186]。2隻はマニラに向かった[187]。 28日朝、マニラに到着した[24][188]。 多号作戦レイテ沖海戦中の10月下旬、南西方面艦隊司令長官三川軍一中将は、マニラ方面の所在艦艇をもってレイテ島輸送作戦実施を下令する[26]。第31駆逐隊は第二遊撃部隊(指揮官志摩清英中将、第五艦隊司令長官)に編入され、多号作戦への従事を命じられた[25][26]。 沖波は浸水被害を抱えたまま多号作戦に参加することになった[189]。 10月29日のマニラ空襲では、那智に被害があっただけで、沖波以下多号作戦参加艦艇に被害はなかった[190]。 10月31日0700、多号作戦第二次輸送部隊[191](警戒部隊〈霞、沖波、曙、潮、初春、初霜〉、松山光治少将指揮下の護衛部隊〈沖縄、占守、海防艦11号、13号〉[192]、輸送船〈能登丸、香椎丸、金華丸、高津丸〉)としてマニラを出撃した[193][194]。 警戒部隊は、一番隊(霞〔第一水雷戦隊司令官木村昌福少将旗艦〕、沖波)、二番隊(曙、潮)、三番隊(初春、初霜)という編成だった[191]。 翌11月1日日中、第二次輸送部隊は米軍機少数に襲撃されたが、味方直衛戦闘機の活躍で撃退に成功した[194]。夕刻、第二次輸送部隊はレイテ島オルモック湾に到着して兵員や軍需品の揚陸を開始した[193][194]。揚陸作業中、沖波は霞と組んでオルモック湾の南西方向を警戒した[195]。 11月2日朝より、第二次輸送部隊はP-38 とB-24 の攻撃を受ける[196]。正午以降の対空戦闘で輸送船能登丸(日本郵船、7,191トン)が沈没[196][197]、駆逐艦潮が損傷した[193][198]。能登丸が沈没したものの、輸送作戦は成功をおさめた[199]。 第二次輸送部隊を指揮する第一水雷戦隊司令官木村昌福少将(海兵41期)は、同日19時に第二次輸送部隊を出港させた[200][201]。復航では、第一号型輸送艦の第9号も第二次輸送部隊に加わった(同艦は、11月2日0430オルモック着)[201]。途中、木村司令官の指定により3隻(初春、初霜、第9号)はパナイ島北東で応急修理中の第百三十一号輸送艦を救援するため分離[201]。 11月4日朝、第二次輸送部隊はマニラに帰投した[201][202]。別働の4隻も翌朝、マニラに帰投した[201]。 沖波はマニラで多号次期作戦に備えて待機した。 11月5日、米海軍機動部隊艦載機によるマニラ空襲により、第五艦隊旗艦の重巡那智が沈没[203]、駆逐艦曙が損傷[204][205]。那智を掩護していた沖波も損傷を受け戦傷者多数、艦長は入院するに至った[27]。 11月13日、第38任務部隊艦載機はマニラに空襲を敢行した[206][207]。 朝からの波状攻撃により軽巡木曾[208][209]、駆逐艦複数隻(曙[210]、初春[211]、秋霜[212])などマニラ在泊中の艦船は次々と被害を受けた[29][213]。 沖波もマニラ湾にて攻撃を受けて損傷、火災が発生した[214][215]。 朝霜や沖縄等の救援により陸岸に移動して消火に成功したが、浸水が進み着底した[216]。北緯14度35分 東経120度50分 / 北緯14.583度 東経120.833度、マニラ市街西方8浬地点であった[217]。 この時点で、沖波に残る乗組員は約30数名となった[216][218]。生存者のうち178名はフィリピンの戦いにおける陸上兵力に転用されている[219]。 同日深夜、第一水雷戦隊残存部隊(霞、朝霜、潮、初霜、竹)はマニラを出発し[220]、ブルネイに向かった[221][222]。 11月20日、牧野中佐は沖波駆逐艦長の任を解かれた(12月10日、転勤。艦長代理は沖波砲術長)[223][224]。 11月25日、多号作戦第五次作戦に従事していた第九号輸送艦は空襲により損傷、同艦航海長(袴田徳男大尉)が戦死する[225]。沖波航海長の佐々木幸康大尉は臨時の第九号輸送艦航海長に任命され、ひきつづき多号作戦に従事することになった[225]。 12月11日、福岡徳治郎大佐は第31駆逐隊司令の職務を解かれた[226]。 12月31日、総員退去[4]。 1945年(昭和20年)1月7日、沖波は爆破処理された[5]。 1月10日、沖波を含む夕雲型駆逐艦6隻(長波、浜波、沖波、岸波、早霜、秋霜)は艦艇類別等級表から削除された[227]。 同時に帝国駆逐艦籍から除籍[228]。 第31駆逐隊も解隊された[229][230]。 歴代艦長
駆逐艦長 参考文献
脚注注
出典
関連項目 |