早霜 (駆逐艦)
早霜(はやしも)は、大日本帝国海軍の駆逐艦[5]。 夕雲型駆逐艦の17番艦である。 概要一等駆逐艦早霜(はやしも)は[5]、日本海軍が舞鶴海軍工廠で1943年(昭和18年)1月[6][7]から1944年(昭和19年)2月20日[1]にかけて建造した夕雲型駆逐艦[8]。 竣工後、早霜は訓練部隊の第十一水雷戦隊に所属、訓練や本州近海の護衛任務に従事した[9][10]。 5月10日より夕雲型2隻(早霜、秋霜)は機動部隊に編入される[11][12]。 5月中旬、航空母艦6隻や戦艦武蔵等を護衛してタウイタウイ泊地に進出した[8][13]。 6月9日、早霜他と共に対潜哨戒中の駆逐艦谷風が米潜水艦に撃沈され[14]、各艦(磯風、島風、早霜、沖波)は救援に従事する[15][16]。 6月下旬のマリアナ沖海戦における夕雲型2隻(早霜、秋霜)は、機動部隊乙部隊(第二航空戦隊)に所属[17]、戦艦長門等と共に米軍機と交戦した[8]。6月20日の空襲で空母飛鷹が沈没すると[18]、早霜は僚艦と共に同艦乗組員を救助した[19] 7月上旬、夕雲型2隻(秋霜、早霜)は第五戦隊(妙高、羽黒)を護衛してシンガポールに進出する[20]。その後はリンガ泊地で訓練に従事した[20]。 8月15日、日本海軍は夕雲型3隻(早霜、秋霜、清霜)により第2駆逐隊を編制する[21]。新編の第2駆逐隊は第二水雷戦隊(旗艦「能代」)に所属した。 10月中旬以降、第2駆逐隊は捷一号作戦にともなうレイテ沖海戦に参加する[8]。第一遊撃部隊(指揮官栗田健男第二艦隊司令長官、通称栗田艦隊)に所属して米軍と交戦した[8]。 10月25日のサマール沖海戦で、早霜は空襲を受けて損傷する[22][23]。姉妹艦秋霜に護衛されて撤退中の10月26日、秋霜は軽巡洋艦能代救援のために分離した[24][25]。 単独行動となった早霜は再度空襲を受けて、セミララ島(ミンドロ島南方)に座礁した[23][26]。早霜救援のために接近した駆逐艦藤波(第32駆逐隊)[27]と駆逐艦不知火(第18駆逐隊)も[28]、米軍機の空襲により相次いで撃沈された[29][30]。その後、早霜は放棄され、最後については判然としない[2]。 艦歴建造経緯早霜(はやしも)は、1942年度(マル急計画)仮称第345号艦[6][31]として舞鶴海軍工廠で建造された[5]。 1943年(昭和18年)1月20日、起工[6]。 7月31日、第345号艦は早霜(はやしも)と命名された[5]。艦艇類別等級表に登録され、夕雲型駆逐艦に類別された[32]。 10月20日、早霜は進水した[33]。同日附で本籍を横須賀鎮守府に定められる[34]。 1944年(昭和19年)1月10日、荒井靖夫中佐(駆逐艦文月艦長等を歴任)は、早霜艤装員長に任命される[35]。 2月20日、早霜は竣工して海軍に引き渡された[36][1]。 同日附で早霜艤装員事務所は撤去された[37]。 第十一水雷戦隊竣工後、早霜は訓練部隊の第十一水雷戦隊に編入された[9][38]。 直ちに瀬戸内海に回航され、第十一水雷戦隊所属艦と共に訓練を受けた[39]。甲標的の訓練にも協力した[40]。 3月中旬以降、早霜は空母龍鳳の護衛に従事する[41]。 3月21日、龍鳳は豊後水道を出撃した[42]。 3月22日、早霜は鹿児島に向け呉を出発[43][44]。 23日[10]、鹿児島で龍鳳と護衛の駆逐艦初霜と合流した[45][46]。龍鳳は第三四三海軍航空隊(隼部隊)の零式艦上戦闘機を積み込んだ[47]。 3月24日に龍鳳隊(龍鳳、初霜、早霜)は鹿児島を出発し、25日に伊勢湾に到着した[48][49]。同地で早霜はサイパン島行の龍鳳と分離し[50]、26日に呉に戻った[10][51]。龍鳳隊(龍鳳、初霜)は29日に伊勢湾を出撃、横須賀発の瑞鳳隊(瑞鳳、山雲、雪風)と合流してサイパンに向かった[48][49]。 つづいて早霜は空母大鳳護衛任務に従事する[52][53]。 3月27日、早霜は桂島泊地を出発した[54]。 呉からシンガポールに向かう空母大鳳[55][56]と護衛の駆逐艦初月、若月[57][58]を臨時に護衛し、大鳳隊と分離後の3月29日内海西部に帰投した[59]。大鳳隊(大鳳、初月、若月)は4月5日シンガポールに到着した[56]。 4月[60]、早霜は第十一水雷戦隊所属艦(霜月、秋霜など)や第二航空戦隊、第三航空戦隊と共に内海西部に所在、訓練に従事する[38][61]。 4月2日、早霜駆逐艦長は荒井中佐から平山敏夫少佐(当時、姉妹艦秋霜駆逐艦長)に交代した[62]。 4月21日、早霜は桂島泊地を出撃する[63]。臨時に戦艦大和の護衛を行うことになった[63][64]。 大和隊(戦艦大和、重巡洋艦摩耶、駆逐艦島風、雪風)は[61]、マニラ経由[65]でシンガポールに向け、内海西部を出撃する[66][67]。 これを早霜と駆逐艦山雲[68][69]が一時的に護衛した[64][70]。 大和隊と別れた早霜は、4月23日夕刻、横須賀に到着[71]。横須賀海軍工廠で修理と整備を実施した。 機動部隊5月10日、駆逐艦4隻(秋霜、早霜、響、電)は機動部隊(司令長官小沢治三郎中将)に編入される[11][72]。 5月11日、駆逐艦複数隻(夕雲型〈秋霜、早霜、玉波[73]〉、第27駆逐隊〈時雨〉、第4駆逐隊〈満潮、野分、山雲〉[74])は大和型戦艦武蔵[75]、空母6隻(第二航空戦隊〈隼鷹、飛鷹、龍鳳〉、第三航空戦隊〈千歳、千代田、瑞鳳〉)[76]を護衛して佐伯を出撃し、タウイタウイに向かう[77][78]。 5月16日、艦隊はタウイタウイ泊地に到着した[75][76]。早霜は同泊地で待機する[10]。 日本海軍機動部隊が待機地点としたタウイタウイ泊地周辺には、アメリカ海軍潜水艦が頻繁に出没していた[79]。機動部隊の駆逐艦も対潜哨戒に従事するが、逆に複数隻(風雲〔6月8日、渾作戦従事中〕[80]、水無月〔6月6日〕[81]、早波〔6月7日〕[82])を喪失する[12][83]。 6月9日、泊地外に敵潜水艦出現の報告により[15]、早霜は第17駆逐隊2隻(磯風、谷風)、二水戦僚艦島風に従って出動する[84]。横列陣で対潜掃蕩中の夜[83]、谷風が米潜水艦「ハーダー」の雷撃により[14]、僚艦3隻(磯風、早霜、島風)の目前で轟沈した[12][15]。 残存3隻(磯風、早霜、島風)は、応援にきた夕雲型駆逐艦沖波(第31駆逐隊)と共に谷風生存者を救助した[15][16]。 →詳細は「マリアナ沖海戦」を参照
6月19日のマリアナ沖海戦では[85]、機動部隊乙部隊(第二航空戦隊〈隼鷹、飛鷹、龍鳳〉、戦艦〈長門〉、重巡洋艦〈最上〉、護衛艦〔第4駆逐隊〈満潮、野分、山雲〉[86]、第27駆逐隊〈時雨、五月雨〉、第17駆逐隊〈浜風〉[87]、夕雲型駆逐艦〈秋霜、早霜〉〕、指揮官城島高次少将兼第二航空戦隊司令官)に編入された[17][88]。 6月20日の対空戦闘において、乙部隊では空母飛鷹が沈没する(他に空母隼鷹等が損傷)[89][90]。 早霜以下各艦は共同で飛鷹の乗組員の救助にあたった[19][87]。 海戦後、燃料不足となった駆逐艦部隊(早霜、時雨、浜風、満潮、秋霜)は機動部隊本隊から分離[87]、22日には早霜と満潮が時雨に対し燃料補給を実施する[91]。 6月22日夜、沖縄の中城湾に到着した。 第一機動艦隊の大部分も同地に集結する[92]。 6月23日午後、駆逐艦5隻(浜風、早霜、秋霜、時雨、五月雨)は第七戦隊(司令官白石万隆少将)の重巡洋艦4隻(熊野、鈴谷、利根、筑摩)を護衛して日本本土へ向かった[93][94]。 6月24日、柱島泊地に帰投した[92][95]。 6月29日-30日、夕雲型2隻(早霜、秋霜)は第五戦隊司令官橋本信太郎中将(海兵41期)の指揮下[20]、妙高型重巡洋艦2隻(妙高、羽黒)を護衛して内海西部を出発した[96][97]、シンガポールへ向かった[98]。マニラを経由して、7月12日シンガポール到着した[20]。同地で修理と整備をおこない、リンガ泊地に移動した[20]。 第二駆逐隊8月15日、日本海軍は夕雲型駆逐艦3隻(早霜、秋霜、清霜)により第2駆逐隊を編成し、第二水雷戦隊(司令官早川幹夫少将・海兵44期、旗艦能代)に編入した[21]。第2駆逐隊司令は陽炎型駆逐艦浦風初代艦長等を歴任した白石長義大佐[99]。 →詳細は「レイテ沖海戦」を参照
1944年(昭和19年)3月頃、大本営陸軍部(当時の参謀総長は東条英機総理大臣)は、シンガポール所在の南方軍総司令部(総司令官寺内寿一元帥)をマニラに移すことを要望した[100]。5月21日、南方軍総司令部はマニラに移転した[100]。だが南方軍は「マニラでは総司令部の位置が東に偏りすぎる。ビルマ方面(インパール作戦)の指導にも支障をきたす」などの理由で、不満を持っていた[100]。その後、9月下旬に山下奉文大将が第14方面軍司令官に任命され[101]、大本営・南方軍とも南方軍総司令部のサイゴン移転に同意する[100]。 南方軍総司令部は、10月20日を目途にマニラからサイゴンへ移転する予定だった[102]。この任務に協力するため、第2駆逐隊は南西方面艦隊の指揮下に入った[103]。 10月14日、第2駆逐隊の2隻(秋霜、早霜)はリンガ泊地を出撃し、マニラに向かった(清霜はリンガ泊地待機)[104][103]。 2隻(秋霜、早霜)は10月17日午前8時にマニラ湾口に到着するが、同地が第38任務部隊(マーク・ミッチャー中将)の艦載機による空襲を受けていたため、聯合艦隊命令により引き返してブルネイ湾に針路を向けた[103][105]。この日は、アメリカ軍大部隊がレイテ湾口のスルアン島に来襲した日でもある[106][107]。 10月18日、捷一号作戦発動に伴って[108]、第一遊撃部隊(指揮官栗田健男中将・海兵38期、第二艦隊司令長官)はリンガ泊地を出撃する[109]。 10月19日、第2駆逐隊(早霜、秋霜)はブルネイ着[110]。第一遊撃部隊も遅れてブルネイに到着した[103]。 10月22日、第一遊撃部隊(通称栗田艦隊)はブルネイ湾を出撃した[111]。 翌10月23日[112]、パラワン水道においてアメリカ潜水艦の攻撃により重巡洋艦愛宕(第二艦隊旗艦)と摩耶が沈没し、高雄が大破した[113][114]。 高雄は[115]、駆逐艦朝霜、長波に護衛されて戦線を離脱した[116][117]。 10月24日、シブヤン海を航行する栗田艦隊(旗艦大和)はアメリカ軍機動部隊艦載機の波状攻撃を受けた[118][119]。 その日の早霜は、第一遊撃部隊・第一部隊(戦艦〈大和、武蔵、長門〉、重巡〈妙高、羽黒、鳥海〉、第二水雷戦隊〔軽巡〈能代〉、駆逐艦〈島風〉、第2駆逐隊〈早霜、秋霜〉、第31駆逐隊〈岸波、沖波〉、第32駆逐隊〈浜波、藤波〉)に属していた(第2駆逐隊の清霜は第一遊撃部隊第二部隊〈指揮官鈴木義尾第三戦隊司令官〉所属)[120][121]。 米軍機動部隊艦載機の空襲で第2駆逐隊からは秋霜が若干の損傷を受け[122]、清霜も損傷する[123][124]。駆逐艦浜風(昼間空襲で損傷、速力低下)[124]と共に戦艦武蔵を護衛して栗田艦隊から分離した[125]。 10月25日朝、第一遊撃部隊(栗田艦隊、旗艦「大和」)はサマール島沖で米軍機動部隊(護衛空母部隊)を追撃する[126](サマール島沖海戦)[127][128]。 戦闘開始時の第一遊撃部隊は、第一戦隊(大和、長門)、第三戦隊(金剛、榛名)、第五戦隊(羽黒、鳥海)、第七戦隊(熊野、鈴谷、筑摩、利根)、第二水雷戦隊(軽巡〈能代〉、第2駆逐隊〈早霜、秋霜〉、第31駆逐隊〈岸波、沖波〉、第32駆逐隊〈浜波、藤波〉、島風型〈島風〉)、第十戦隊(旗艦〈矢矧〉、第4駆逐隊〈野分〉、第17駆逐隊〈浦風、雪風、磯風〉)であった[129][130]。 第二水雷戦隊の戦果は僅少だった[131][132]。 同日夕刻(午後5時前後)、早霜は爆撃を受けて損傷する[22][133]。栗田長官は早霜単艦でのコロン湾回航を命じたが、続いて秋霜に早霜掩護を下令した[22][134]。秋霜は栗田艦隊主隊から分離反転して早霜に合流、早霜も応急修理により自力航行可能となったので、2隻(秋霜、早霜)だけでサンベルナルジノ海峡を突破、栗田艦隊を追いかけた[22][134]。 10月26日午前7時50分、2隻(秋霜、早霜)は栗田艦隊本隊を発見、秋霜は第2駆逐隊司令(白石大佐、早霜座乗)の命令により早霜護衛をやめた(15分後に対空戦闘開始)[24][135]。空襲終了後の9時すぎ、秋霜は再び栗田艦隊本隊から分離して早霜のそばに戻ってきた[24][136]。 一方、空襲で能代が沈没[25][137]。 秋霜は早霜と分離して能代の遭難現場に向かい[24]、浜波と共同し能代乗組員を救助している[25][138]。 取り残された早霜はミンドロ島南方を単独航行中に第38任務部隊(マーク・ミッチャー中将)の艦載機の攻撃を受ける[23]。艦首部と艦中央部の命中弾によって艦首と二番煙突を吹き飛ばされ、沈没を防ぐためにアンティーケ州セミララ島の浅瀬(北緯12度4分5.3秒 東経121度22分8.8秒 / 北緯12.068139度 東経121.369111度座標: 北緯12度4分5.3秒 東経121度22分8.8秒 / 北緯12.068139度 東経121.369111度)に擱座した[139]。すると沈没した重巡洋艦鈴谷乗組員を収容して栗田艦隊から遅れていた沖波が、擱座した早霜を発見して近寄ってきた[140]。 燃料に海水が混じったため早霜の使用可能燃料は5トン程度しかなく、沖波も余裕はなかったが早霜に横付して補給を開始する[140]。この時、早霜と沖波は藤波が2隻から約10km程沖合を航行するのを発見した[141]。だが、藤波は空襲を受け、早霜と沖波の目前で轟沈した[141]。 また早霜と沖波も空襲を受けたため、沖波は横付を離して回避に転じる[140]。沖波は早霜を残してコロン湾へ向かった[2]。 早霜が座礁した頃、レイテ島への輸送作戦(多号作戦)からの帰途に空襲で沈没した軽巡洋艦鬼怒と駆逐艦浦波救援のため[142][143]、第一水雷戦隊の駆逐艦不知火はコロン湾を出撃、シブヤン海に向かった[29][144]。 だが鬼怒を発見できず、帰途についた[28][144]。 10月27日午前9時35分頃、不知火は座礁中の早霜を発見して接近したが、セミララ島の西方海域で米軍機動部隊艦載機の空襲を受けて沈没した[28][30]。早霜はその光景を目撃することになった[145]。藤波に続いて2度目の目撃である。 11月1日、重巡洋艦那智(第二遊撃部隊旗艦)の水上偵察機が擱座している早霜を発見して着水し[30]、不知火の最期を聞きだした[28][145]。その後、早霜の船体は放棄されたが、田中大尉以下約30数名が早霜に残っていたという[2]。アメリカ軍によるフィリピン奪回が進んで後、アメリカ海軍の調査班が擱座している早霜を調査したが[139]、残留乗組員がその後どうなったかは定かではない[2]。座礁するほどの浅瀬のため、早霜の船体とほぼ同規模の海中構造物[146]が、セミララ島イトガオ湾に現存することが衛星写真から判る。 12月1日、平山中佐は早霜駆逐艦長の職務を解かれた[147]。 1945年(昭和20年)1月10日、駆逐艦早霜は 夕雲型型逐艦[148]、 第2駆逐隊[149]、 帝国駆逐艦籍[3] のそれぞれから除籍された。 歴代艦長
参考文献
脚注
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