津留千彰
津留 千彰(つる ちあき、1956年4月23日 - )は、鹿児島県出身の元騎手。 経歴1970年代1975年3月1日の中山第2競走4歳未勝利・シャダイマーシャル(15頭中13着)で初騎乗[1] [2]を果たすが、1年目の同年は10回しか騎乗できず[3]、0勝に終わる[4]。 2年目の1976年に8月14日の函館第6競走4歳未勝利・セブンホープで初勝利[1] [2]を挙げ、同年はこの1勝[4]に終わるが、3年目の1977年には7月23日の新潟で自身初の1日2勝[5]を記録するなど初の2桁勝利となる10勝[4]をマーク。 1978年には2月4日・5日の東京で初の2日連続勝利を記録し、4月15日・16日の中山、9月2日・3日の新潟でも記録[6]。4月9日の中山第8競走5歳以上オープンではカシュウチカラでプレストウコウ・グリーングラスの菊花賞馬2頭に割って入る2着[7]、安田記念では11頭中10番人気のコウチライデンでニッポーキングに6馬身離されるもカネミカサをハナ差抑えての2着[8]に入り、9月3日には初の特別勝ち[6]も挙げるなど、2年連続2桁で10勝[4]をマーク。 1979年からは1桁台が続くが[4]、1980年の札幌記念ではスプレンダーグラスに騎乗し、2着馬プリテイキャストに5馬身離されるもダービー馬ラッキールーラに先着する3着[9]に入った。 1980年代1981年の北海道3歳ステークスではコウチオウショウでヤマノシラギク・リーゼングロスを抑えて勝利し[10]、重賞初勝利[1]を挙げたと同時に古賀一隆厩舎にも初タイトルをもたらした。 1985年には7年ぶりの2桁となる13勝[4]を挙げ、朝日杯3歳ステークスでは大和田稔厩舎のミヤギオウジャで12頭中12番人気ながらダイシンフブキ・ダイナコスモスに次ぐ4着[11]と健闘。 1986年の京成杯ではミヤギオウジャでニッポーテイオーと共に終始2番手追走も、逃げるダイナフェアリーを捕らえられず、5着同着[12]に終わった。新潟大賞典では12頭中10番人気のベルレンケルで3着[13]に入り、同年には2度目の2年連続2桁で自己最多の14勝[4]をマーク。 1987年の福島記念では条件戦からコンビを組むミスターブランディ[14]でユウミロク・ホクトヘリオスを抑えて逃げ切り[15]、6年ぶりの重賞勝利[1]を挙げる。第32回有馬記念では逃げるレジェンドテイオーに競りかけず、2番手に控える展開で予想外のスローペース[16]を演出し、16頭中13番人気ながらカシマウイング・ダイナアクトレス・クシロキング・マックスビューティ・トウカイローマン・タレンティドガール・スダホーク・ダイナガリバーを抑えて5着[17]と健闘。 1988年に新潟で行われたオールカマーでは16頭中12番人気のミスターブランディで逃げてスズパレードの2着に粘り[14]、2年ぶりの2桁となる13勝[4]をマーク。 1989年にはミスターブランディでオールカマーをオグリキャップの3着とし、福島記念ではオースミシャダイ・プレジデントシチーを抑えて[18]人馬共に同レース2勝目[1]を飾った。 1990年代1990年にはフィリーズベストでクイーンカップ3着[19]に入り、1991年には3年ぶりの2桁となる13勝[4]、1993年・1994年には7年ぶりの2年連続2桁で11勝[4]をマーク。 1997年6月28日の福島第9競走グラジオラス賞・ケイアイコレクターで最後の勝利[20]を挙げ、同年11月16日の福島第2競走4歳未勝利・ロッチダンス(16頭中6着)[21]を最後に騎乗が無くなり、1998年2月28日付で現役を引退[1]。 騎手成績
脚注
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