ヤマノシラギク(欧字名:Yamano Shiragiku、1979年2月25日 - 1999年9月27日)は、日本の競走馬、繁殖牝馬[1]。
京都大賞典を2度制すなど重賞3勝。日本中央競馬会の10箇所の競馬場すべてで出走した馬として知られている[2]。現在でいうGI競走での勝利はないものの、牡馬相手の古馬重賞でもたびたび好走をした。女旅役者と呼ばれた[3]。
父はオーバーサーブ、母はホンマルクイン。ファミリーラインは小岩井農場の基礎輸入牝馬の一頭であるビューチフルドリーマー系である。近親に「美少女」タマミがいる。
戦績
1981年6月、札幌競馬場での3歳新馬戦でデビューし2戦目で勝ち上がった。その後はなかなか勝てないものの、京都3歳ステークスでは同世代最強の呼び声が高かったサルノキングと好勝負を繰り広げての2着となり、また阪神3歳ステークスでもリードエーティの2着に入り翌年の牝馬クラシック戦線の主役候補として期待された。
4歳になり2連勝して桜花賞の制覇の期待も大きかったが、故障が判明して桜花賞を回避した。故障から復帰してオークスやエリザベス女王杯には出走したものの、上位入着はできなかった。
5歳になってからは長期の休養を取ることなく小倉、新潟、中京などのローカル重賞の制覇を狙って転戦するものの、なかなか勝利を収められなかった。秋になってようやく京都大賞典を制した。その後も休みなく各競馬場を転戦して、その当時の重賞には欠かせない名脇役となっていった。札幌、函館、新潟、福島、中山、東京、中京、京都、阪神、小倉からなる中央競馬の10箇所の競馬場全てで出走を果たしたことでも話題となった。戦績も牝馬としてはなかなかのもので、6歳で小倉大賞典、7歳で再び京都大賞典を制した。
1985年12月、7歳で有馬記念に出走したのを最後に現役を引退した。
ヤマノシラギクというとローカル重賞のイメージが強いが、実は全7勝のうち5勝を京都競馬場で挙げるなど、強力なメンバーが揃う京都や阪神で好走した一方、ローカル開催ではあまり勝てていない。それゆえローカル重賞では人気を集めては勝てず、人気を落として京都で大穴を出すという馬になっていた。
またローカル開催が活動の中心ということもなく、天皇賞と宝塚記念には3回挑戦し、ジャパンカップと有馬記念にも1回出走している。
女旅役者
ほとんど休養を取ることなく各地を遠征し、顔に非常に太い流星(馬の顔に入る白い毛の線)が入っているために顔が白くそれが白粉を連想させ、またヤマノシラギクという名前の印象からも、旅役者をイメージさせる馬だった。京都育ちの女役者が旅また旅の生活で全国各地で興行の舞台に立ち、たまに京都に戻ってきて淀の舞台で見事な演技で馴染みの観客を魅了する、ヤマノシラギクはそんなふうに擬人化されて語られたことが多かった[要出典]。
その後
引退後は今岩男牧場で繁殖牝馬として供用された[2](グランド牧場に居た時期もある)が、産駒成績は全く振るわずに終わった(ただし、牝馬も数頭出産しており、牝系は2000年代まで存続していた)。また、産駒は全て母と同オーナーだった。
1999年9月27日に、今岩男牧場で疝痛のため、21歳で死亡[4]。墓は最期を迎えた今牧場に建てられている。
主な勝ち鞍
- 5歳(1983年) - 京都大賞典
- 6歳(1984年) - 小倉大賞典(GIII)
- 7歳(1985年) - 京都大賞典(GII)
エピソード
- JRA10場出走は7歳時に福島競馬場で出走して達成したが、これは新潟競馬場が改装のため開催変更となった新潟大賞典に出走して達成されたものであった(福島での出走はその一度のみであった)。
- 10場のうち、9場では掲示板に載る(5着以内)ことができたが、2度出走(7歳時の中山牝馬ステークスと有馬記念)した中山競馬場でのレースでは11着、10着に終わり、「全10場での掲示板」は達成できなかった。
- 10場すべてで重賞競走に出走している。本馬以外には、アラタマワンダーが記録している。
- JRAが1981年より開始している競走馬を題材とした広報ポスター『ヒーロー列伝』にも起用されているが、他の起用馬がGIないしそれに相当する競走を勝ち鞍に有している中で、2023年現在、唯一現役時に一度もGIを勝利していない馬である(発表時点で未勝利だった例としては他にステイゴールドがいる)。
血統表
脚注
注釈
出典
参考文献
- 『優駿』
- 1993年10月号、日本中央競馬会、1993年10月1日。
- 1999年11月号、日本中央競馬会、1999年11月1日。
- 「monthly Topics 今月のトピックス」『全場出走の勲章は永遠に ヤマノシラギク、疝痛で死亡』
外部リンク