河和海軍航空隊
河和海軍航空隊(こうわかいぐんこうくうたい)は、日本海軍の部隊・教育機関の一つ。太平洋戦争開戦に向けての出師準備の一環として、急増すると予想される整備要員の大量養成を図るために設置した。もっぱら実際に機体を整備する兵・下士官の養成に振り向けられ、相模野・出水に続く三番目の整備訓練航空隊として開かれた。さらにまったく系統が異なる水上機搭乗員の練成部隊も追加された。前述の航空隊を「第一河和海軍航空隊」、後述の航空隊を「第二河和海軍航空隊」と呼称した。 第一河和海軍航空隊愛知県知多郡美浜町の古布地区の集落を収用し、二年かけて整備教育施設を構築した。体裁としては、整備教育を一手に引き受けていた追浜海軍航空隊から分派した部隊に位置づけられる。幹部を養成する高等科を主軸に据えた追浜空とは逆に、現場で活躍する整備員を養成する普通科練習生の教育に従事した。
整備教育を推進する訓練場であったため、全期間を通して数千人規模の生徒を抱えていた。最盛期には9000人とも言われる。実質的には学校であり、教育課程の凍結・簡略化には悩まされたが、施設・設備面での変化は小さく、すべての整備教育航空隊と同様に、戦局の悪化による実習教材不足が常に問題視されていた。 主力機種訓練用教材として各種機材が用いられ、飛行訓練・実戦に使用できる機体は保有していない。 歴代司令
第二河和海軍航空隊水上機練成部隊であった小松島海軍航空隊の増員に速やかに対応すべく、既設の水上機基地の中から手頃なものを探していたところ、落成まもない河和に白羽の矢が立てられた。これにより、まったく教育系統が異なる二つの河和航空隊が誕生した。両航空隊の間に交流はほとんどなく、第一航空隊は山手で整備教育、第二航空隊は海岸で搭乗訓練に明け暮れた。
主力機種練成教育隊であるため、新旧の各種水上機を使用した。実施部隊に変更後は など。 歴代司令
戦後の河和基地基地造成のために強制収用されて追い出された古布の人々は、そのまま移転先に定住した。基地跡は農地として解放され、古布の人々の農地拡張や復員者の入植地として活用された。整備工場をそのまま活用した紡績工場も過去にあった。桟橋は漁港に転用された。河和基地の施設設備は戦後の産業基盤にすっかり取り込まれてしまったが、水上機用スリップは民間に活用されることなく、基地の痕跡を現在も伝えている。 関連項目参考文献 |
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