『江戸名所記』(えどめいしょき)は、江戸時代前期に浅井了意によって著された江戸の名所記。寛文2年(1662年)5月、五条寺町河野道清版。先に『慶長見聞集』、『色音論』等もあるが、江戸全体を概括した純粋な地誌としては最初のものである[1]。
概要
著者浅井了意は京都出身で江戸の滞在歴がある仮名草子作家で、先に東海道を題材とした『東海道名所記』を著しているが、本書は中川喜雲著の京都初の名所記『京童』に影響を受け、江戸内外の人々に対し江戸の名所を紹介するものである。江戸の繁栄ぶりを強調する記述が目立ち、先に明暦の大火の見聞を『むさしあぶみ』に著した著者が、その後の復興を他国に知らしめようとする意図も窺える[1]。
版下の文字は了意の自筆である[2]。
刊記に「寛文二年壬寅五月日」とある。巻4祢宜町歌舞伎条に「去年寛文元年」、巻5芝金杉村西応寺条に「今寛文二年ミつのえ寅」とあり、この2巻は刊行と同年の寛文2年(1662年)執筆と考えられるが、全ての内容を5ヶ月以内に書き上げたとは考えにくく、寛文元年(1661年)頃起稿とも考えられる[2]。いずれにせよ、文章と挿絵の配置が十分に整えられておらず、挿絵の雲の形も不統一であることから、刊行はかなり拙速に行われたことがわかる[3]。
序文には、春の麗らかな陽気に誘われて戸を出て歩いていると、長年の友達が同様の気分で宿を出て来た所に遭遇したので、立ち話をした。別れるのも名残惜しいので、流れに任せ、長年江戸に住みながら外の人の質問に答えられないのは愚かしく、また話の種ともなるので、江戸巡りを敢行したという設定が述べられている。二人が名所を巡り狂歌を応酬する形式は『竹斎』以来のもので、先の『東海道名所記』とも共通する。
記述は上方目線であり、挿絵も女性が被衣や市女笠を身につけるなど、京の風俗が混じり込んている[1]。
目次
大概地域別に纏められてはいるが、序文にあるような「廻るべき道筋を定め」た順路としては無駄が多く、また所々錯乱がある[4]。巻七は残った項目の寄せ集めのようにも見える[4]。
また、巻七の橘樹郡栄興寺(影向寺)は唯一東京都区部外にあり、距離的にも他の名所と離れ過ぎているため、了意が実際に投宿したなど特別な事情のある寺と推測される[4]。
- 巻一
- 武蔵国
- 江戸御城
- 日本橋
- 東叡山 - 寛永寺
- 牛天神
- 不忍池
- 忍岡稲荷
- 神田広小路薬師 - 麻布薬園坂に移転後廃止
- 湯島天神
- 神田明神
- 谷中清水稲荷 - 現在第六天榊神社内
- 谷中法恩寺 - 現在墨田区太平
- 谷中善光寺 - 現在港区北青山
- 谷中感応寺 - 現在天王寺
- 新堀村七面明神 - 現在延命院内
- 巻二
- 駒込村吉祥寺
- 駒込村富士社并不寝権現(根津権現)
- 西新井惣持寺
- 浅草観音
- 浅草明王院付嫗淵
- 石浜村総泉寺付妙亀山 - 現在板橋区小豆沢
- 浅草金竜山付真土山
- 浅草三十三間堂
- 東本願寺
- 浅草報恩寺 - 現在台東区東上野
- 浅草日輪寺
- 海禅寺
- 浅草薬師 - 東光院
- 浅草清水寺
- 浅草誓願寺 - 現在府中市紅葉丘
- 巻三
- 神田天沢寺 - 現在の麟祥院
- 浅草町西福寺
- 森田町大六天 - 現在の台東区蔵前第六天榊神社
- 浅草焔摩堂付十王 - 後華徳院に改称、和田堀町に移転
- 浅草駒形堂
- 浅草文珠院 - 現在の藏前神社
- 角田川(隅田川)
- 西葛西浄光寺薬師
- 葛西郡東照院若宮八幡 - 前者は現在の善福院、後者は隅田川神社に合併
- 東葛西善導寺(善通寺)
- 牛島業平塚
- 西葛西本所大神宮 - 現在の船江神社
- 牛島太子堂 - 如意輪寺
- 深川泉養寺付神明 - 現在市川市国分台
- 巻四
- 廻向院
- 三俣
- 永代島八幡宮 - 富岡八幡宮
- 祢宜町浄瑠璃
- 祢宜町歌舞妓
- 西本願寺 - 築地本願寺
- 増上寺
- 巻五
- 芝瑠璃山遍照寺 - 現在の真福寺
- 窪町烏森稲荷 - 現在の烏森神社
- 芝金杉村西応寺
- 田町八幡 - 御田八幡神社
- 芝大仏 - 後養玉院に合併
- 芝焔摩堂
- 芝泉学寺(泉岳寺)
- 品川東海寺
- 品川水月観音 - 品川寺
- 池上本門寺
- 巻六
- 目黒不動
- 赤坂氷河大明神
- 永田馬場、山王権現
- 牛込右衛門桜
- 牛込堀兼井
- 牛込穴八幡宮
- 曹司谷法明寺
- 小石川金剛寺 - 現在中野区上高田
- 関口村目白不動
- 小石川極楽之井
- 巻七
- 渋谷金王院
- 金杉村天神
- 白山町白山権現
- 橘樹郡栄興寺(影向寺)
- 日比谷神明 - 現在の芝大神宮
- 王子金輪寺
- 愛宕山
- 傾城町吉原
後世の受容
書籍目録には以下のような記載があり、しばらく東西で版を重ねて販売されていたことがわかる。
- 寛文10年(1670年)江戸版『増補書籍目録』「七冊 江戸名所 松雲作」
- 寛文11年(1671年)京版『増補書籍目録』「江戸名所 松雲作 七」
- 延宝3年(1675年)京版『古今書籍題林』「七 江戸名所 了意作」
- 延宝3年(1675年)江戸版『増補書籍目録』「七 江戸名所記 了意」
- 天和元年(1681年)江戸版『書籍目録大全』「七 江戸名所記 松雲記 七匁」
- 元禄7年(1694年)大坂版『増益書籍目録大全』「七 ゑさうしや 江戸名所記 松雲作 五匁」
「ゑさうしや」は絵双紙屋喜左衛門のことと思われるが、伝存不明[3]。
江戸後期には入手が難しくなったと見え、山東京伝が曲亭馬琴に本書を借用していたことを示す書簡が残る[5]。
雪後、別而寒気相増候得共、益
〻御康健御座被
㆑遊、恭悦奉
㆑存候。然者、度々御蔵本拝借づらハしく相願、恐入奉
㆑存候。今日、『江戸名所記』合本四冊返上仕候。御落手被
㆑遊可
㆑被
㆑下候。千万忝、難
㆓謝尽
㆒奉
㆑存候。此間寒気にいたみ罷在候間、委曲ニ御礼申上兼候。万々後便可
㆓申上
㆒候。頓首々々再拝
十一月十一日
曲亭先生 京伝
収録
- 塙保己一集、国書刊行会編『続々群書類従』第8輯、国書刊行会、1906年
- 同、続群書類従完成会、1970年
- 同、八木書店古書出版部、2013年
- 江戸叢書刊行会編『江戸叢書』巻2、江戸叢書刊行会、1916年
- 山田清作編輯『江戸名所記』<稀書複製会10期>、米山堂、1936年
- 守随憲治校訂『江戸名所記』<改造文庫第2部第470篇>、改造社、1940年
- 多麻史談会編『江戸名所記』多麻史談会、1946年
- 朝倉治彦校注・解説『江戸名所記』名著出版、1976年
- 市古夏生解説『江戸名所記』<近世文学資料類従古板地誌編第8>、勉誠社、1977年
- 朝倉治彦編『日本名所風俗図会』江戸の巻1、角川書店、1979年
- 朝倉治彦編『仮名草子集成』第7巻、東京堂出版、1986年
- 浅井了意全集刊行会編『浅井了意全集』仮名草子編第7巻、岩田書院(予定)[6]
脚注
- ^ a b c 稀書複製会編『稀書複製会刊行稀書解説』第10篇、米山堂、1940年
- ^ a b 朝倉治彦「解題」『江戸名所記』名著出版、1976年
- ^ a b 朝倉治彦「解題」『仮名草子集成』第7巻、東京堂出版、1986年
- ^ a b c 朝倉治彦「解説」『日本名所風俗図会』江戸の巻1、角川書店、1979年
- ^ 『馬琴書簡集成』第6巻来62
- ^ 浅井了意全集全19冊
関連項目
外部リンク