永江恭平
永江 恭平(ながえ きょうへい、1993年5月7日 - )は、佐賀県鳥栖市出身[1][2]の元プロ野球選手(内野手)。右投左打。 経歴プロ入り前小学校1年生の時に野球を始め[1]、中学生時代は「小郡リトルシニア」でプレーした(その時の監督は広島東洋カープなどに在籍、特に西武ライオンズの1980年代の黄金期に左のワンポイントリリーフとして名を馳せた永射保)[3]。 海星高等学校では1年生の時に遊撃手のレギュラーになった[1]。主将として迎えた[4]3年生時の夏の長崎大会では投手としても3試合に登板した[5]。第93回全国高等学校野球選手権大会では初戦で東洋大姫路高校と対戦。3番・遊撃手として先発出場し、エースの原樹理相手に4打数1安打だった[6]。先発投手が負傷したため4回の途中に急遽救援登板し[5]、4回2/3を投げ3点本塁打を打たれるなど4失点だった[6]。高校通算では27本塁打を放った[7]。 2011年10月27日に行われたプロ野球ドラフト会議で埼玉西武ライオンズから4位指名を受け[8]、契約金4000万円、年俸600万円(金額は推定)で仮契約を結んだ[9]。背番号は59[10]。 西武時代2012年3月6日に行われた東北楽天ゴールデンイーグルスとの練習試合では先発出場し、3安打1盗塁を記録した[2]。7月14日に初めて出場選手登録され[11]、7月15日の対オリックス・バファローズ戦の9回に代打でプロ初出場し、初打席は三振だった[7][12]。7月25日の対千葉ロッテマリーンズ戦では9番・二塁手で初先発出場し[1][13]、10月3日の対楽天戦では5回の第2打席で初安打を放った[14][15]。 2013年3月29日の北海道日本ハムファイターズとの開幕戦では、9番・遊撃手で先発出場した[2]。西武において、開幕戦で十代の遊撃手が先発出場したのは1954年の豊田泰光以来だった[16]。6月12日の対中日ドラゴンズ戦の8回に適時打を放ち、プロ初打点を挙げ[17]、7月6日の対ロッテ戦の5回には初本塁打を放ち[7][18]、9月15日の同カードでは7回に初盗塁を記録した[19][20]。 2014年は開幕を二軍で迎え[21]、4月18日に出場選手登録されると[22]、同日の対オリックス戦でシーズン初出場[3]。最終的に出場試合数は前年を下回ったものの打席数が増え、打率と出塁率もわずかに向上した。二軍では、7月17日に行われたフレッシュオールスターゲームにおいて1番・二塁手で先発出場したが、4打数無安打だった[4]。 2015年の春季キャンプでは田辺徳雄監督の指導のもと、プロ入り時から左打ちであるが右打ちの練習を行った[23]。この年も開幕を二軍で迎え、6月10日に一軍登録された[24]。昇格後は主に遊撃手として起用され、54試合に出場。守備固めの起用が多く、1年目より少ない30打席にとどまった。 2016年も二軍で開幕を迎えた。5月12日に一軍登録され[25]、昇格後は遊撃手として起用された。6月下旬に鬼崎裕司から遊撃のポジションを奪取したものの、打率は1割台へ下降。8月から再び鬼崎にポジションを奪われ、その後は守備固めの起用となった。この年は74試合で打率.162だった。オフに背番号を浅村栄斗が付けていた32に変更した[26]。 2017年は4年ぶりに開幕一軍登録を果たすが[27]、遊撃手は源田壮亮が務めていたため、三塁の守備固めでの起用が主となった。5月30日に一軍登録を抹消されるが8月15日に一軍登録され、8月16日には9番・三塁手で先発出場した。 2018年は4試合の出場に留まった。 2019年4月14日、源田が左手死球の影響で欠場したことで自身3年ぶりの遊撃守備となる「9番・遊撃手」でスタメン出場した[28]。 2020年は一軍出場はなかった。みやざきフェニックス・リーグ参加メンバーだったものの[29]、途中離脱させられ[30]、11月13日に球団より2021年シーズンの契約を結ばないことが発表された[31]。 その後、動画サイトを通じて現役を引退していたことが発表された[32]。 引退後引退後の2023年4月に一般社団法人ボーダーレス・ベースボール協会を設立し、代表理事を務めている[33][34]。 選手としての特徴・人物プロ入り時で50メートル走のタイムは6秒0で遠投は118メートル。安定感のある守備が売り。また、高校生時に投手としては最速149km/hを記録している[2]。 プロ1年目に、渡辺久信監督から松井稼頭央2世と評された[2][7]。 母は佐賀県鳥栖市議会議員の永江ゆき[35]。2021年11月の選挙で初当選した。 詳細情報年度別打撃成績
年度別守備成績
記録
背番号
登場曲
脚注
関連項目外部リンク
|
Portal di Ensiklopedia Dunia