永井貞録
永井 貞録(明治20年(1887年)9月25日 - 昭和17年(1942年)7月24日)は、日本の政治家、実業家。元鳥取県議会議員。元中浜村会議員。 弓浜組合製糸組合長、西伯郡米子市連合養蚕組合組合長、伯西社組合長、鳥取県養蚕組合長などを勤め、全国屈指の養蚕王国といわれた県下の大御所的存在として、大日本蚕糸会副総裁でもあった[2]。元鳥取県境港市長安田貞栄・元今井書店社長永井準の父、鳥取県議会議員安田優子の祖父。 経歴旧麦垣集落(現在の鳥取県境港市麦垣町)の大農家に生まれる[2]。綿に代わって蚕が主要作物になっていく頃であった[2]。 昭和2年(1927年)鳥取県議会議員となり4期連続当選、昭和9年(1934年)副議長となる[2]。 県営繭検定所の開設新屋灘への県蚕業試験場西伯分場、米子商蚕学校(現米子南高校)の開校などに尽力したほか、東亜物産貿易(現在の東亜青果)を設立し満鮮貿易に乗り出すなど、地域の産業振興に貢献した[2]。 県会4期目の在職中の昭和17年(1942年)7月24日死去[2]。大日本蚕糸会からその功績に対して第一種功労賞が贈られている[2]。 人物像人柄七町あった田畑をすべて売ってしまった[3]。世にいう井戸と塀だけが残る“井戸塀政治家”になってしまい親戚から説教されたが、「七町歩をなくしたが九長を得たよ」と得意になって肩書きを九つ並べてみせて煙にまいたという[3]。又、当時県下に余り例のない外車を4000円で買って乗り回し、豪勢な暮らしをしてみせたが、内実は火の車で、貞録の死後残っていたものは当時の金で二万円の借金だった[3]。 評価元山陰放送会長織田収によれば「永井氏は政治家的というより経済人、実業家的な物の見方をする人であった[4]。地方の産業、経済の振興に熱心で、県西部の発展の基盤作りをした人だと思う[4]。市長のように思い切ったことはようやらんが、まとめ役として最高であった[5]。同じ浜出身の景山圭一はすぐ怒ったが、永井氏は人あたりがよく、穏やかで、怒った顔をみせたことがなかった[5]。」という。 家族・親族永井家
参考文献
脚注
|