氷室神社
氷室神社(ひむろじんじゃ)は、奈良県奈良市にある神社。式内小社(論社)、旧社格は村社[1]。かつては南都楽所の拠点であった。 歴史由緒は「氷室神社縁起」絵巻に記されており、また『続日本紀』や『元要記』にも散見される[2]。和銅3年(710年)7月22日、元明天皇の勅命により、吉城川上流の春日山にある月日磐に氷神を奉祀し(下津岩根社[3][脚注 1])たのに始まるという。 春日野にある氷池(現・奈良春日野国際フォーラム 甍〜I・RA・KA〜一帯)で厳寒に結氷させた氷を氷室(荒池・鷺池を望む浅茅ヶ原一帯にあり、春日氷室、平城氷室、御蓋氷室などと呼ばれた)[脚注 2]に蓄え、翌年に平城京へ献氷させる制度が創始された[2][4]。和銅4年(711年)6月1日に初めて献氷の勅祭が行われると、以降毎年4月1日より9月30日まで平城京に氷を納めた[4]。 奈良朝7代、70年余りの間はこの制度は継続したが、平安遷都後は廃止され、貞観2年(860年)2月1日に清和天皇の時代になって現在地に奉遷され、氷の作り方を教えた闘鶏稲置大山主命の他、天皇に氷を始めて献上した額田大仲彦命と氷を献上された大鷦鷯命の左右2神を併せ三座となった[4]。社殿が建立されたのは建保5年(1217年)とされている[2]。 また、13世紀には日本三楽所のひとつである南都楽所が置かれ、奈良における舞楽の一大拠点へと成長していき、神職も楽人が務めるようになった。 春日社の別宮に属し、式年費用や営繕費、祭礼費などは春日社、興福寺の朱印高2万石、および社頭所禄、三方楽所料2千石などの一部によって賄われた。 明治時代となり神仏分離が行われると、興福寺との関係は断たれた。1870年(明治3年)には南都楽所が廃止され、他の二つの楽所と合わさって宮内省雅楽部(現・宮内庁式部職楽部)が成立している。 現在は、氏子と冷凍氷業界の奉賛により維持される形になっている[4]。 祭神境内春日造の一ノ鳥居が、登大路に面する[2]。鳥居を入ると両側に石灯籠が立ち並び、右手に手水舎、左手に境内社の祓戸社がある[2][5]。右手の石灯籠、手水舎の背後には、鏡池と枝垂れ桜がある[5]。正面石段を登ると表門(四脚門)と東西廊がある[5]。
文化財重要文化財奈良県指定有形文化財
奈良市指定有形民俗文化財
神事献氷祭奈良時代、春日野に氷池[脚注 3]や氷室[脚注 4]を設け、氷の神を祀り、春迎えとして順調な気候と豊作を祈願する祭りが営まれていた[4][脚注 5]。現在は全国各地より、製氷・販売業者が参列し、業績成就を祈願する祭りとなっており、業界繁忙な6月を避けて5月1日に行われている[4]。神前に花氷や鯛の結氷などの花氷3基、氷柱6基を捧げ、舞殿では舞楽4曲が奉じられる[2]。 例祭永久5年(1117年)9月1日、鳥羽天皇の時代に悪疫鎮止のため始められたという[4][7]。源平の騒乱の後一時絶えたが、建保5年(1217年)、順徳天皇によって南都楽所の氏神として仰ぎ再興され、日の使も参向したと伝わる[4]。 江戸時代の終わりまでは、「氷室の舞楽祭」等と称され、1日夜18時から20時までと翌2日の後宴祭は別願の舞楽と呼ばれ、38曲もの曲が演じられ終日舞楽が奉献されていたとの記録が残っている[4]。 明治までの渡御お旅所は、旧一乗院宮邸の玄関に鳳輦(神輿)が安置され、興福寺の別当一乗院宮が参列し御旅所祭を執行した[4]。神社との往復途上、道楽と称し奏楽しつつ練り歩いたと伝わる[4]。明治以降は興福寺南大門跡が御旅所となった[4]。その後、渡御は氏子の要望により氏子区域32ヶ町を巡幸するようになったが、交通事情のため1962年(昭和37年)に中断した[4][7]。2020年(令和2年)に鳳輦の修復を記念して、渡御が58年ぶりに復活した(神社 - 御旅所(興福寺南大門跡)間)[7]。 現在の例祭現在は毎年3から4ヶ町ずつ当番となり、9月30日の宵宮、10月1日の例祭が運営されている[4]。
氷献灯境内では、宵宮・例祭両日の18時頃、氏子各町内では宵宮の18時頃[4]から、絵馬の上に蝋燭を灯し、穴の空いた氷塊を飾る「氷献灯」が多数飾られる。 神事ギャラリー
現地情報
脚注出典
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