橋本和
橋本 和(はしもと わたる、1986年9月14日)は、滋賀県伊香郡高月町(現長浜市)出身のサッカー選手。ポジションはディフェンダー(SB)。 来歴父の影響で幼い頃からサッカーに親しみ、小学2年生の時に地元のクラブチームへ入団[1]。利き手は右だが、物心がついた時から左足でボールを蹴っていた[1]。 高月町立高月中学校に入学後、サッカー部がなかったことから、小学生時代の指導者が立ち上げたジュニアユースのクラブチーム「バーニングブラッドFC」へ入団[1]。中学3年生の秋、青森山田高等学校のセレクションに合格し、特待生として進学した[1]。同校サッカー部の同級生に盛礼良レオナルド、那須川将大がいた。 高校卒業後は、大阪体育大学に進学。同級生に田所諒、松尾元太がいた。2005年、2006年には、関西学生選抜としてデンソーチャレンジカップに出場[2]。2008年、総理大臣杯全日本大学サッカートーナメントで優勝を飾った。 2009年、柏レイソルへ新加入する。同年のJ1第31節清水エスパルス戦で公式戦初出場。 2010年、J2の舞台で出場機会を増やし、リーグ戦29試合に出場。クラブ初のJ2優勝、J1復帰に貢献した。 2011年、左膝靭帯損傷による出遅れもあり、新加入のジョルジ・ワグネルに左サイドバックのレギュラーポジションを奪われてしまう[3]。復帰後は途中出場が多く、J1第14節横浜F・マリノス戦では「高校3年生以来」となるセンターバックも務めたが[4]、ワグネルが左サイドハーフにコンバートされたシーズン中盤に再びレギュラーを奪取した[3]。J1優勝の懸かった最終節の浦和レッズ戦で、前半38分にコーナーキックのこぼれ球をオーバーヘッドキック気味のシュートでゴールへ流し込み、Jリーグ初得点を記録。結果として、これがクラブ初のJ1優勝を決める決勝点となった。 2012年、日本代表候補に初選出されたが、負傷によりキャンプには参加出来なかった[5]。リーグ戦では引き続きレギュラーとして25試合に出場し、37年ぶりの天皇杯制覇も達成した。 2013年は、開幕前に右脛骨遷延性骨折で離脱したため[6]、中断期間明けの6月23日に行われたヤマザキナビスコカップ準々決勝第1戦・広島戦でシーズン初出場を果たした。復帰以降は左サイドバックや左ウイングバックのポジションを掴み、出場停止や負傷を除いてほぼ全ての試合に出場した。 2014年12月12日、浦和レッドダイヤモンズへ完全移籍することが発表された。 2016年7月6日、ヴィッセル神戸へ期限付き移籍することが発表された[7][8]。浦和ではほとんど出場機会を得られなかったが、神戸移籍後は熟知するネルシーニョ監督のもと、すぐさま左サイドバックのレギュラーポジションを確保し、攻守に安定感のあるプレーでクラブの2ndステージ上位進出に貢献した。シーズン終了後に浦和から神戸に完全移籍で加入することが発表された。 2020年1月6日、FC岐阜へ完全移籍することが発表された[9]。2022年11月16日、契約満了による退団が発表された[10]。 2024年4月14日、FC岐阜サッカースクールのアシスタントコーチに就任[11]。4月27日には、FC岐阜SECONDに選手登録される[12]。 人物
所属クラブ
個人成績
その他の公式戦
その他の国際公式戦
タイトル
代表歴
脚注
関連項目外部リンク |
Portal di Ensiklopedia Dunia