横山泰造横山 泰造(よこやま たいぞう、1870年10月14日(明治3年9月20日[1][2][3])- 1947年(昭和22年)4月10日[4][5])は、明治後期から昭和前期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、岡山県会議長、岡山県邑久郡鶴山村長、同県和気郡日生町長。木堂派として活動した[2]。 経歴備前国邑久郡鶴海村[1](岡山県[4]邑久郡鶴山村[6][7]鶴海[2]、備前町を経て現備前市鶴海)で、素封家、酒造業・横山栄蔵の二男として生まれる[1][2][3]。東京高等商業学校(現一橋大学)を中退し[2][6]兵役に服し[1][8]、帰郷して家業の酒造業を手伝った[1][9]。 その後、分家して果樹園を営みナシ栽培を行う[1][2][9]。邑久郡農会長、同郡畜産組合長、岡山県畜産組合連合会副会長、中央畜産会副会頭、帝国馬匹協会理事、岡山酪農販売購買利用組合理事長などを務め[4][7]、畜産などの農業振興に尽力[9]。実業界では、岡山練乳社長、岡山相互金庫理事長、岡山内燃工業組合理事長、淡路練乳顧問などを務めた[4][7]。 政界では、邑久郡会議員、同議長、鶴山村長に在任[4][7]。1915年(大正4年)5月、岡山県会議員補欠選挙に当選し[1]、1927年(昭和2年)まで4期12年余り在任し同議長も務めた[1][2][4][6][9]。この間、日生町長に1921年(大正10年)から1928年(昭和3年)2月まで2期7年在任し、町営病院開設、水道整備、日生港整備、鴻島開墾事業などに尽力した[1][2][4][10]。 1928年(昭和3年)2月、第16回衆議院議員総選挙で岡山県第1区から立憲政友会公認で出馬して初当選[1][2][6][11]。第18回総選挙でも再選され[1][2]、衆議院議員に通算2期在任した[4][7]。選挙活動資金の捻出のため果樹園も閉めて借財を増やし[5]、第18回総選挙で資金援助を受けた実業家行吉角治を後継者にして1936年(昭和11年)に政界を引退した[5]。 国政選挙歴
親族脚注
参考文献
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