河田繁穂河田 繁穂(かわだ[1] / かわた[2] しげほ、1860年1月24日(安政7年1月2日[1][3])- 1925年(大正14年)10月3日[1][2])は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員、岡山県会議長、岡山県苫田郡芳野村長。有弘(ゆうこう)に改名した[1][2]。 経歴美作国西西条郡吉原村[1](岡山県[2]西西条郡芳野村[1]、苫田郡芳野村を経て現鏡野町[1]吉原)で、河田竹治の長男として生まれる[3]。 1879年(明治12年)吉原村戸長に就任[1]。以後、西西条郡書記、円宗寺村外5カ村戸長を歴任[1]。1886年(明治19年)岡山県会議員に選出され通算6期、1919年(大正8年)まで在任[1][2][4]。この間、同常置委員、同議長(1896年-1898年)も務めた[1]。1898年(明治31年)3月、第5回衆議院議員総選挙(岡山県第6区、自由党)で当選し[1][5]、衆議院議員に1期在任[1][2][4]。1900年(明治33年)苫田郡会議員となり1904年(明治37年)まで在任し同副議長も務めた[1]。 1913年(大正2年)芳野村に就任[1][3]。苫田郡町村会長を務めた[1]。1925年に北海道で開催された全国町村長会からの帰途、岡山市の娘婿宅で倒れ、同年10月に死去した[1]。 実業界では、岡山県農工銀行常務取締役[2][4]、中国鉄道(現中鉄バス)重役などに在任[1]。1894年(明治27年)有志と吉原村に作楽製糸会社を設立し、また水田、道路の開発などに尽力した[1]。 親族
脚注参考文献
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