玉野知義玉野 知義(たまの ともよし、1876年(明治9年)2月8日[1][2] - 1945年(昭和20年)2月7日[1][2][3])は、明治後期から昭和前期の政治家、実業家。衆議院議員、岡山県会議長、岡山県和気郡片上町長。幼名・桃三郎[4]。1886年(明治19年)家督を相続し知義に改名した[4]。反木堂派として活動した[1][2]。 経歴岡山県[3]和気郡東片上村[1](片上村[2]、片上町[5]、備前町を経て現備前市東片上)で、農業・玉野友吉、文の二男として生まれる[1][6]。閑谷黌(閑谷学校)で学んだが中退し[1][3][注釈 1]、片上郵便局勤務[7]を経て和気郡書記に就任[1][2]。 1900年(明治33年)片上町助役を経て1902年(明治35年)片上町長に就任し2年間在任[1][2]。片上町会議員、和気郡会議員、同参事会員も務めた[3]。1919年(大正8年)岡山県会議員に選出され3期連続して在任し[1][2]、同参事会員、同議長も務めた[1]。1920年(大正9年)片上町長に再任し1923年(大正12年)まで在任[1][2]。この間、片上鉄道取締役[4]として片上線敷設に尽力し[1][2]、また片上湾浚渫を推進した[1][2]。 実業界では、1904年(明治37年)ころに和気郡伊部村(現:備前市伊部)に備前土管会社を設立し[1]、1906年(明治39年)片上町で酒造業を営み[1]、1913年(大正2年)伊部町に瓦斯エンジン発電機の電灯会社を設け[1]、その他、片上連合運送社長、岡山タクシー自動車社長などを務めた[3][5]。 1928年(昭和3年)2月、第16回衆議院議員総選挙で岡山県第1区から立憲政友会公認で出馬して初当選[1][2][8]。第20回総選挙でも再選され[2]、議員倶楽部に所属し衆議院議員に通算2期在任した[2][3][5]。1942年(昭和17年)の第21回総選挙でも立候補をしようとしたが、酒造業を切り盛りし玉野の政治資金を支えてきた妻・佐野の反対で断念し政界を引退した[9]。 国政選挙歴
親族脚注注釈
出典
参考文献
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