土屋 源市(つちや げんいち、1888年(明治21年)7月1日[1][2][3] - 1968年(昭和43年[注釈 1])7月8日[1][4])は、明治末から昭和期の獣医師、政治家、実業家。衆議院議員、岡山県新見市長、同市名誉市民[1]。旧姓・佐々木。和牛の改良に心血を注ぎ岡山県の「和牛の父」と称された[1][2]。
経歴
岡山県[4]阿賀郡実村[1](千屋村、阿哲郡千屋村を経て現新見市千屋実)で、農業・佐々木久太郎の三男として生まれる[1][2][3]。1908年(明治41年[注釈 2])岡山県農学校(現岡山県立高松農業高等学校)獣医科を卒業した[1][2][5][6]。1913年(大正2年)阿哲郡美穀村唐松の土屋和吉の養子となる[2][3][6]。
阿哲郡吏員、同農業技手、阿哲郡産牛馬組合技師を務め、千屋牛の改良に尽力した[1][2][4][3]。1920年(大正9年)阿哲畜産 (株) が設立されると支配人に就任し、その後、同社長を務めた[1][4]。その他、阿哲郡産牛馬組合長、阿哲郡産業組合長、新見町産業組合理事長、阿哲郡商業組合長、全国和牛登録協会初代副会長、中国和牛協会初代副会長、岡山県畜産組合連合会長などを務めた[1][4][5][6]。
政界では、1931年(昭和6年)9月、岡山県会議員に選出され、連続3期11年在任し、同議長も務めた[1][2][5][7]。1942年(昭和17年)4月、第21回衆議院議員総選挙で翼賛政治体制協議会の推薦を受け岡山県第2区から出馬して当選し[1][2][8][9]、衆議院議員に1期在任[4]。この間、翼賛政治会政調農林委員、同商工兼務委員などを務め[5]、その後、日本進歩党に所属した[4]。
戦後、公職追放となった[1][2][10]。追放解除後、1954年(昭和29年)7月、初代新見市長に就任し、体調が理由で1期在任して引退した[1][2][11]。
親族
脚注
注釈
- ^ a b 『昭和の岡山 政治と人と 上(戦前・戦中編)』300頁、『岡山県大百科事典 下』208頁では昭和35年(1960年)。
- ^ 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』413頁では明治40年。
出典
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 『岡山県歴史人物事典』648頁。
- ^ a b c d e f g h i j 『岡山県大百科事典 下』208頁。
- ^ a b c d 『昭和の岡山 政治と人と 上(戦前・戦中編)』295頁。
- ^ a b c d e f g 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』413頁。
- ^ a b c d 『翼賛議員銘鑑』258頁。
- ^ a b c d 『人事興信録 第14版 下』ツ34頁。
- ^ 『昭和の岡山 政治と人と 上(戦前・戦中編)』297-298頁。
- ^ 『昭和の岡山 政治と人と 上(戦前・戦中編)』298-299頁。
- ^ 『衆議院議員総選挙一覧 第21回』425頁。
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、一般該当者名簿681頁。公職追放の該当事項は「推薦議員」。
- ^ 『昭和の岡山 政治と人と 上(戦前・戦中編)』299-300頁。
参考文献
- 『翼賛議員銘鑑』議会新聞社、1943年。
- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第21回』衆議院事務局、1943年。
- 人事興信所編『人事興信録 第14版 下』人事興信所、1943年。
- 山陽新聞社編『昭和の岡山 政治と人と 上(戦前・戦中編)』山陽新聞社、1979年。
- 『岡山県大百科事典 下』山陽新聞社、1980年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『岡山県歴史人物事典』山陽新聞社、1994年。
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旧新見市長 |
- 土屋源市1954.7.1-1958.6.30
- 林武一1958.7.1-1966.6.30
- 赤木孜一1966.7.1-1982.6.30
- 福田正彦1982.7.1-1994.6.30
- 石垣正夫1994.7.1-2005.3.30
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新見市長 |
- 石垣正夫2005.4.24-2016.11.9
- 池田一二三2016.12.25-2020.12.7
- 戎斉2020.12.8-2024.12.7
- 石田實2024.12.8-
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