林永喜
林 永喜(はやし えいき)は、江戸時代初期の儒学者、歌人。兄林羅山と共に江戸幕府に仕え、初期の幕政に参画した。 経歴天正13年(1585年)、京都に生まれた[2]。兄林羅山に道学、歌道家に和歌を学び、慶長9年(1604年)9月9日藤原惺窩に初対面して啓発を受けた[2]。度々漢和聯句会に参加し、慶長13年(1608年)から一華堂乗阿と『源氏物語』について論争した[2]。 慶長13年(1608年)3月27日駿府城で徳川家康に拝謁し、江戸に出て徳川秀忠にも面会した[2]。慶長14年(1609年)長崎に派遣された[3]。慶長17年(1612年)江戸に出仕し、武蔵国瓦葺村550石を知行し、常に近侍して訴訟の裁定を行った[2]。慶長19年(1614年)と慶長20年(1615年)大坂の陣に随行した[2]。 元和2年(1616年)4月17日家康の死後、南光坊天海と上洛し、菊亭晴季と家康の神号下賜について協議した[2]。同年12月21日徳川秀忠の御咄衆に加わった[2]。寛永3年(1626年)上洛に随行し、9月二条城行幸の時、老中・執事の評議に参加し、『皇朝類苑』等を賜った[2]。寛永4年(1627年)3月3日羅山・以心崇伝と崇源院霊牌の書法、9月17日酒井忠世・土井利勝・崇伝・羅山とオランダ国王の書簡について協議した[2]。 寛永6年(1629年)6月父信時の葬儀のため上洛し、12月30日刑部卿・法印に叙された[2]。寛永7年(1630年)12月秀忠の看病に当たり、寛永9年(1632年)1月24日死去すると、天海・崇伝・羅山等と諡号について協議した[2]。同年12月自邸を焼失し、代地を賜った[2]。 寛永11年(1634年)羅山と日光東照宮・増上寺の年中行事について撰文し、寛永12年(1635年)春羅山の武家諸法度19条の起草に加わった[2]。寛永13年(1636年)12月朝鮮通信使の儀式・返答書簡について協議した[2]。 寛永15年(1638年)8月19日江戸で死去し、忍岡聖堂北隅に葬られ、牛込に改葬された[2]。 著作
門人親族脚注参考文献
外部リンク
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