友野霞舟

友野霞舟

友野 霞舟(ともの かしゅう、寛政3年(1791年) - 嘉永2年6月24日1849年8月12日))は、江戸時代後期の儒学者漢詩人昌平黌教授。幼名は安太郎、名は瑍、通称は雄助、字は子玉。霞舟または霞洲と号す。

経歴

寛政3年(1791年)に江戸で生まれる。父・盛興は幕府の表火番、本姓・石川、先祖は備後鞆浦の人[1]。七歳にして隣家の逸見氏に薫陶を受け、はじめ井川東海の門で学び、のち昌平黌に入り野村篁園に学ぶ。天保13年(1842年)10月に昌平黌儒員に任じられ、翌天保14年(1843年)、門人である甲府勤番支配・浅野長祚によって甲府徽典館初代学頭に就任する。徽典館の教則はすべて霞舟によって作成された[2]弘化2年(1845年)に帰府、亡くなるまで昌平黌教授を務めた[3][4]

林大学頭家当主林復斎の命を受けて、霞舟が江戸初期から天保の初頭までの漢詩人の作品を集め小伝と評語を添えた『煕朝詩薈』全110巻は、源義直源頼信の大名から林羅山石川丈山伊藤仁斎荻生徂徠頼山陽など1484人、14145首に及ぶ、江戸時代に最も完備された漢詩の大著である[5]。友野による選詩、解説ともに極めて優れており、近世の漢詩人と作品を通覧できる本邦未曾有の一大近世漢詩史、国家的名著として高く評価されている[6]

嘉永2年(1849年)に没する。享年59。

逸話・交遊・作風

井川東海に教えを受けていた幼い時から英敏をもって知られ、詩文を口ずさむとたちまち章を為すというくらいだった[7]天然痘を患い高熱を出した時に文選の賦を譫言した逸話もある。博覧強記であり、質問されるとその答えはどの書物の何巻のどこにあるとまで指示できた。

霞舟は古賀精里の雅会を引き継いだ古賀侗庵の如蘭社、野村篁園らの牛門社、氷雪社、龍隠社庵の詩会、昌平黌を中心とする芹水社と称する詩会に参加した。他に岡本花亨、野村篁園、千阪廉斎、乙骨耐軒、設楽翆獄、浅野梅堂、石川秋帆、安藤竜淵、木村裕堂、久貝寥庵、小花和桜墩らがいた。化政文化期には大田南畝鈴木白藤、植木玉厓が参加、その後は霞舟と乙骨耐軒が本流となり、嘉永期には向山黄村、望月毅軒、杉浦梅潭、森田桜園らが参加した。霞舟は耐軒より二十歳以上の年長ながら、共に忘年の交わりを結んだという[8]

森銑三神田喜一郎は、霞舟や林述斎、古賀侗庵、野村篁園など昌平黌関係者と共につくっていた詩社を官学派と呼んだ[9]。これら官学派の詩人たちは貴族的で、端正な詩風と生活態度が共通していた[10]

門人に川路聖謨浅野梅堂久貝蓼湾向山誠斎森田桂園などがいる。

無題
鴛衾暖透更怡融 鴛衾に暖透りて 更に怡融し,
墜枕銀釵慢髻鬆 枕より墜つる銀釵に 慢髻 鬆(ゆる)む。
睡裡依稀傳密語 睡裡 依稀(いき)として 密語を傳へ,
歡餘困頓坐春慵 歡餘 困頓として 春慵に坐す。
殘燈影暗宵分帳 殘燈 影は暗し 宵分の帳,
滴漏聲和月午鐘 滴漏 聲は和す 月午の鐘。
堪笑楚襄無福分 笑ふに堪へん 楚頃襄王の福分無く,
朝雲徒向夢中逢 朝雲に 徒らに 夢中に 向(お)いて逢ふ。

著書・編著

参考文献

系譜

脚注

  1. ^ 猪口篤志 著『日本漢文学史』,p426・427,角川書店,1984.5
  2. ^ 友野霞舟著,熈朝詩薈刊行会 編纂『日本の漢詩人と名詩』第1巻,解題、ゆまに書房,1983.4
  3. ^ 鷲尾義直 著『その日その日の偉人』,p360・361,清光社,大正11年
  4. ^ 猪口篤志 著『日本漢文学史』,p426・427,角川書店,1984.5
  5. ^ 橋本成文 著『日本漢詩の精神と釈義』,P41,77,旺文社,1944
  6. ^ 友野霞舟著,熈朝詩薈刊行会 編纂『日本の漢詩人と名詩』第1巻,解題、ゆまに書房,1983.4
  7. ^ 浅野長祚『寒檠璅綴 巻之四』芸苑叢書、1919年、83p頁。 
  8. ^ 今関天彭『東京市内先儒墓田録』,P117,政教社,大正2
  9. ^ 無窮会編『東洋文化』(55)(289),玉川臺詩話(6)友野霞舟をめぐる師弟関係(一) / 坂口筑母/p105~111,無窮会,1985-08.
  10. ^ 富士川英郎『江戸後期の詩人たち』麥書房、1966年、117p頁。 
  11. ^ 無窮会 編『東洋文化』(56)(290),P111,無窮会,1986-03

 

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