板倉重宣
板倉 重宣(いたくら しげのぶ)は、江戸時代前期の大名。上総高滝藩の初代藩主。庭瀬板倉家の祖。 生涯寛文4年(1664年)、三河中島藩主(後に下野烏山藩主)板倉重矩の世子である板倉重良の長男として生まれる。重良は本来なら重矩の後継者となるはずであったが、寛文12年(1672年)9月に病気を理由に重矩によって廃嫡され、家督は叔父の重種が寛文13年(1673年)に継ぐこととなった。重宣は重種のもとで養育され、なおかつ本来なら藩主を継ぐべき地位にあったことから、重種の世子として迎えられた。延宝6年(1678年)12月28日に従五位下越中守に叙位・任官する。 ところが、延宝9年(1681年)2月に重種が武蔵岩槻藩6万石に加増移封された際、重宣を廃嫡して自らの息子である重寛を世子にしたため、重宣や重宣の母は不満を持って重種と対立した。さらには母が備中岡山藩主池田光政の姪であったため、光政を頼って窮状を訴え、光政もこのことを幕府に訴えた。これが原因で板倉家では家督争いが起こり、第5代将軍徳川綱吉より家中取り締まりがよくないとして、重種は老中を罷免、謹慎処分が下され、天和2年(1682年)2月には信濃坂木藩5万石に減移封を命じられた。 このため、重種は天和3年(1683年)5月に隠居、初めは所領の奉還を幕府に願い出たが、幕府の裁定で所領のうち3万石を重寛に、2万石を重宣にそれぞれ分割相続させた。こうして、重宣は上総高滝藩主として大名となったが、翌貞享元年(1684年)8月21日に死去した。享年21。跡を養子の重高が継いだ。 脚注
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