松平昌勝
松平 昌勝(まつだいら まさかつ)は、江戸時代前期の大名。越前国松岡藩初代藩主。松岡松平家の祖。官位は従四位下・中務大輔。 生涯寛永13年(1636年)3月11日、越前福井藩主・松平忠昌の長男(庶長子)として江戸にて誕生した。多賀谷村広が傅役を命じられた。 忠昌の死後、その遺言により正保2年(1645年)に5万石を分与され、慶安元年(1648年)に芝原と呼ばれていた地を松岡と改め、松岡藩を立藩した。3年ほどかけて松岡館が建てられた。同年12月31日、従五位下・中務大輔に叙任する。慶安4年(1651年)には昌勝、光通、昌親の兄弟揃って、日光の家光廟普請の手伝いを命じられている。 承応2年(1653年)、祖母を偲んで領内に永平寺末寺として清涼山天龍寺を建立した。寺の山号は祖母の清涼院から取られ、寺名の天龍寺は、住職が以前にいた江戸品川の天龍寺から名づけられた。松岡藩主家の菩提寺であり、のち昌勝の子が福井藩を継ぐと、福井藩の菩提寺の一つとなった。また、この前後に領内の治水を行うと共に松岡館に外濠を掘り、土居(土塁)をめぐらせ拡充した。寛政4年(1792年)7月27日、昌勝百回忌を記念して昌勝の像が作られ、同寺に安置された。現在も寺内には昌勝を祀る「御像堂」があり、現在でも毎年「御像祭」が行われ、その際に一般公開されている。 承応3年(1654年)、松岡に初入部した。地元では温厚で、領民に対し気さくな人柄であったとの話が残る。乗馬などの武芸以外にも、川での漁、鵜飼い、水泳、相撲に博奕、和歌などを好んだともされる。また、殖産興業に勤め、特に鋳物の産業が発展した。寛文3年(1663年)12月28日には従四位下に上った。貞享3年(1686年)に正式に福井藩から独立経営することを認められた。 その後も本家の家督を継げなかったことに不満を持ち、たびたび本藩に介入し、後に起こる福井藩の家督騒動の一因を作ることとなった。光通の死後はさらに弟の昌親が相続し、昌勝が福井藩の藩主になることは最後までなかった。 元禄6年(1693年)7月27日に江戸浅草の屋敷にて58歳で死去し、跡を三男・昌平(後の宗昌)が継いだ。 『土芥寇讎記』に拠れば、「分限より奢り、美少年を好み、常に酒宴を催していた」が、「今のところ悪事を働いていないので、中の下の将」であるとされている。 系譜
関連項目
|
Portal di Ensiklopedia Dunia