東ガンガ朝
東ガンガ朝(ひがしガンガちょう、英語:Eastern Ganga dynasty)とは、5世紀末から15世紀前半にかけて、東インド、オリッサ地方に存在したヒンドゥー王朝(5世紀末 - 1434年)。南インドのマイソール地方(現カルナータカ地方)にも、同名の西ガンガ朝(350年 - 1000年)が存在したため、この王朝は区別して、「東ガンガ朝」と呼ばれている。首都はカリンガナガル。 歴史成立東ガンガ朝は5世紀末まで起源をさかのぼる、とても歴史の長い王朝であった[1]。 この王朝の記録が明確に現れるようになったのは、9世紀末のインドラヴァルマン[要曖昧さ回避]の治世からである。 最盛期と内乱アナンタヴァルマンはこの王朝のもっとも偉大な王で、その72年にわたる長い治世、この王朝は最盛期を迎え、北はガンジス川、南はゴーダヴァリー川に至るまでの、広大な大帝国を築いた[1]。 また、12世紀にオリッサのプリーに現在にまで残る巨大なヒンドゥー寺院、ジャガンナート寺院を建設したのも、彼の業績の一つである[1]。 だが、アナンタヴァルマンの死後、1147年から1178年まで31年間、王位は空位であり、おそらくは王位継承をめぐって争いがあったと考えられる。 結局、1178年にアナンタヴァルマンの息子ビーマ・デーヴァ2世が王位につき、戦争は終結したが、この間に南西ベンガルは、ベンガル地方のセーナ朝の支配下にはいっていた。南西ベンガルは二度と東ガンガ朝の領土には戻らなかった[1]。 デリー・スルターン朝との戦い11世紀末、ゴール朝のインド方面の司令官アイバクは、北インドを制圧し、その武将ムハンマド・バフティヤール・ハルジーがセーナ朝を蹂躙してベンガル地方を手にした。そして、1200年以降オリッサに侵入してきたが、ビーマ・デーヴァ2世の孫ラージャラージャ2世はこれを撃退した[2]。 1216年から1235年かけて、息子ビーマ・デーヴァ3世も同様に、デリー・スルターン朝の奴隷王朝の軍を撃退している[2]。 その息子ナラシンハ・デーヴァ1世の治世は反撃に出て、1243年に奴隷王朝の支配するベンガル地方に侵攻し、その守備軍の指揮官を討ち、ベンガルの首府ガウル(ラクナワティ)の門前にまで来た[2]。だが、アワド地方から多数援軍が到着しつつあることをある知り、彼は帰還した[2]。ナラシンハ・デーヴァ1世は奴隷王朝と4度以上戦い、最後の戦いでは敗れてしまい、オリッサの領土に侵攻された[2]。この王はコナーラクの寺院を建設したことで知られている。 だが、その孫ナラシンハ・デーヴァ2世はナラシンハ・デーヴァ1世の治世に奪われたオリッサの領土を奪還した[2]。それだけではなく、南西ベンガルから奴隷王朝の勢力を追い払い、ガンジス川にまで侵攻した[2]。彼は1296年にガンジス川の土手から勅令を発している。 1323年、トゥグルク朝の軍司令官ウルグ・ハーンは、デカンのカーカティーヤ朝を滅ぼし、南インドのホイサラ朝を再服従させたあと、西からオリッサに侵攻した[2]。だが、ナラシンハ・デーヴァ2世の息子バーヌ・デーヴァ2世に撃退された[3]。 このように、東ガンガ朝の歴史はデリー・スルターン朝との絶え間ない戦いにあり、その独立を守るために戦い続けなければならなかった。 衰退・滅亡ナラシンハ・デーヴァ3世の治世、1334年以降、ムハンマド・ビン・トゥグルクの失政により、トゥグルク朝から多数の地方長官が独立したが、ここから東ガンガ朝は衰退していった[4]。 バーヌ・デーヴァ3世の治世、東ガンガ朝の領土はベンガル・スルターン朝やヴィジャヤナガル王国といった新興勢力の標的となり、さらには1358年から1359年にベンガル・スルターン朝に遠征していたフィールーズ・シャー・トゥグルク率いるトゥグルク朝の軍勢にも攻撃された[4][5]。フィールーズ・シャーの軍勢は1360年にビハールからオリッサに侵入したのち、首都を占領し、多くの人々を殺害したばかりか、ジャガンナート寺院を略奪した[6][5]。 その息子ナラシンハ・デーヴァ4世の治世には、バフマニー朝、マールワー・スルターン朝、ジャウンプル・スルターン朝からの遠征軍を受け、王朝は衰退したが、攻撃に耐え抜いて独立を守った[4]。 1424年、ナラシンハ・デーヴァ4世の死後、息子のバーヌ・デーヴァ4世が即位したが、王国の実権は宰相のカピレーンドラに握られた[4]。 1434年、宰相カピレーンドラはバーヌ・デーヴァ4世を廃して、ガジャパティ朝を樹立し、10世紀続いた東ガンガ朝はその歴史に幕を閉じた[4]。 歴代君主
脚注参考文献
関連項目外部リンク |
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