月輪陵・後月輪陵
本記事では、月輪陵(つきのわのみささぎ)と後月輪陵(のちのつきのわのみささぎ)および同じ墓域にある灰塚と墓(以上を本陵墓と記す)について記述する。 本陵墓には、四条天皇を始めとして14人の天皇を含む25陵、5人の天皇の灰塚、9人の皇族の墓が営まれる[1][注釈 1]。元々は皇室の香華院(菩提寺)であった泉涌寺の境内にあって帝王陵と呼ばれていたが[4]、明治時代の神仏分離により宮内省に上地された[5]。本陵墓は、泉涌寺霊明殿の背後にあり、透壁と唐破風の門に囲まれ、その前の白砂地の庭が拝所となっている[5]。名称は泉涌寺の月輪大師と、泉涌寺の背後にある月輪山に因む[1]。 なお、本陵墓の近辺には後堀河天皇の観音寺陵、孝明天皇の後月輪東山陵、英照皇太后の後月輪東北陵がある。 沿革前史平安時代には、天皇在位のまま崩じた場合は土葬、譲位後の上皇が崩じた場合は火葬するのが通例となる。一方で天皇が在位のまま崩じることが凶事と認識されて生前譲位が慣例となり、9世紀中頃からは総じて火葬になる。そして荼毘に付した場所の火葬塚や灰を集めた灰塚が、陵とは別に営まれるようになる[6][3]。 また平安時代を通じて、天皇陵と寺院の繋がりが強くなっていく[7]。醍醐天皇(930年崩御)の陵は御願寺であった醍醐寺の北に造営されたが、その管理は従来の諸陵寮ではなく醍醐寺に命じられた[8]。さらに院政期になると、寺院の中に陵墓が営まれるようになり、納骨した法華堂などを陵と見なすようになった[7]。 四条天皇月輪陵承久の乱(1221年)で朝廷側が敗れると朝廷の権威は失墜し、皇位継承にも鎌倉幕府の意向が働くようになる。1242年に四条天皇が急に崩じると葬儀は泉涌寺で営まれて寺内に土葬され、墓所として新御堂が造営された。これが、泉涌寺での葬儀と月輪陵の初例である[9][7]。泉涌寺で葬儀と埋葬が行われた理由については四条天皇の遺言とする伝承もあるが[10]、幕府に慮っていずれの寺院も四条天皇の葬儀を引き受けなかったところ、四条天皇の祖父で四条天皇女御の祖父でもあった九条道家が泉涌寺の外護者であったことや、父後堀河天皇の陵と近いことなどを理由に泉涌寺が引き受けたと考えられる[9][7][11]。やがて、四条天皇は泉涌寺の俊芿の生まれ変わりという伝承が生まれた[11]。 葬式と灰塚の造営その後、皇統は持明院統と大覚寺統に分かれ、やがて南北朝に至る。持明院統の初代の後深草天皇(1304年崩御)の陵として深草法華堂(現在の深草北陵)が建立されると、これが事実上の持明院統の霊堂となり、続く持明院統の天皇が合葬されていく[12]。 北朝4代の後光厳天皇(1374年崩御)は、葬儀と荼毘を泉涌寺で行い深草法華堂に納骨した。この際の棺はそれまでの生絹ではなく仏教色の強い赤錦地で包まれ、葬儀は僧だけで執り行われるなど仏事で行われた。また、泉涌寺以下5寺院に分骨が行われる[12][13]。以降、天皇の葬儀と荼毘は泉涌寺が独占し、その後に深草法華堂に納骨される事が通例となった[12]。その中でも後土御門天皇(1500年崩御)から後陽成天皇(1617年崩御)に至る5人の天皇の灰塚は、本陵墓内に造営された[14]。 近世の天皇陵墓制と御寺近世になると本陵墓内には新上東門院(1620年逝去)を始めとして皇族の墓が造営されるようになり、後光明天皇(1654年崩御)に至って四条天皇以来の陵が造営された[14]。後光明天皇より仁孝天皇(1846年崩御)までの近世の天皇陵の葬制は、火葬の儀を執り行いつつ実際に火葬は行わず土葬するようになった[1][15]。また、陵は全て本陵墓に造営され、泉涌寺は名実ともに皇室の香華院となって御寺と称されるようになる[1]。 墓制が土葬に改まった理由については、青地礼幹の『可観小説』に記される魚屋八兵衛の逸話が知られるが、史実性は疑わしい[1][15]。他には江戸幕府が推進した儒教の影響や[15]、四条天皇など天皇在位のまま崩じた際の土葬の故実に倣った[7]などの説がある。 孝明天皇が1867年に崩じると、神仏分離の影響から山陵の復活を望む運動が起こる。陵は天智天皇陵の付近に造営する意見もあったが泉涌寺が反対し、本陵墓に近い後月輪東山陵に定まった。この混乱で孝明天皇の葬儀は崩御から1か月後となった[16]。葬儀も火葬の儀は行われない完全な土葬となり、近世の天皇陵墓制は終焉した[16][15]。 陵墓5つある灰塚のうち後陽成天皇灰塚を除く4塚は、樹木を植えられて横並びに配置される[17]。植えられている樹木はサカキだが[3]、過去には異なる樹木が植えられていた(表を参考)。後陽成天皇灰塚のみ石造九重塔となっているが、的場匠平は室町時代の記録に「御廟」「御墓」などと記されていることから当時は陵と灰塚の区別は明確ではなく、先例である四条天皇の御廟を参考にしたと推測している[18]。 先例となった四条天皇陵を除くと、本陵墓と幕末の後月輪東山陵を合わせると江戸時代の全ての天皇陵がこの付近に存在している[7]。本陵墓の天皇陵は全て石造九重塔で、区画は石冊によって正方形に区切られて石敷きの仕上げとなっており、一部には石冊に石門が付く[19]。 16人の女院と4人の親王の陵墓は、無縫塔もしくは宝篋印塔を基本とする[20]。葬送日順では誠仁親王陵が最も早いが、本墓の造営年代は不明で、無縫塔になった経緯も明らかではない[21]。 女院は、正妻(陵)か否か(墓)で規模が異なる。当初の形態は無縫塔であったが、東福門院陵で初めて宝篋印塔となる。東福門院陵の造営にあたって幕府から朝廷に照会があった記録が残されており、幕府出身者の立場が反映されたと考えられる。東福門院陵以降は再び無縫塔に戻るが、100年以上経って盛化門院陵で宝篋印塔が再び造営される。当時の史料によれば東福門院陵に倣うよう沙汰があったと記されており、以降女院の陵墓は宝篋印塔になる。ただしこれらには東福門院陵にあった石冊はなく、格は下がる[21]。 新清和院陵のみ七重塔だが、これは1870年(明治3年)に建て替えられたもので、元来は宝篋印塔であった。記録によれば内親王であった新清和院陵を造営する際には、その規模を東福門院墓と同格にしたいと朝廷から幕府に伺いがあり、許されている[21]。 19世紀には3人の親王墓が造営されるが、3人とも天皇の正妻の子で生母の身分が関係したと考えられる。いずれも宝篋印塔だが、女院のものよりやや小型である[21]。
脚注注釈出典
参考文献
関連項目 |
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