昭和天覧試合昭和天覧試合(しょうわてんらんじあい)は、昭和初期に開催された武道の天覧試合である。以下の大会がある。 概要明治、大正期にも宮内省済寧館や皇室の邸宅において武道の天覧試合、台覧試合は行われたが、華族や官吏など限られた者だけが出場する試合であった。昭和天覧試合は広く国民を対象として挙国的に行われ、戦前の武道史上最大の催事となった。 種目は剣道と柔道の他、第3回(紀元二千六百年奉祝天覧武道大会)では弓道も加わった。各武道の試合は府県選士の部と指定選士の部に大別され、前者は各府県及び外地から「斯道の専門家を除く」という条件の下、予選を以て各一名の代表者が選ばれた。後者は実力、人格共に優秀な者(専門家)を、指定選士詮衡委員会の選考に基づき宮内省が直接に指定した。天覧試合に出場することは当時の武道家の最高の栄誉とされ、選士は大いに緊張するとともに奮い立った。 試合の組合せは、可能な限り公平、正確な方法が考案された結果、まず抽選によって複数のブロックに分かれて総当たり戦(リーグ戦)を行い、各ブロックの1位となった者が勝ち残り式(トーナメント戦)によって優勝を争う形式とされた。順位を競う大会は当時の武道界では画期的であり、武道が競技(選手権大会)として確立するきっかけとなった[注釈 1]。 柔道は明治神宮競技大会柔道競技のものでも講道館のものでも大日本武徳会のものでもない試合審判規程で行われた[2]。ベースは明治神宮競技大会柔道乱取審判規程。
大会は宮内省皇宮警察部が主催した。昭和天皇のほか皇族、大臣、陸海軍大将、警視総監、府県知事、貴族院議員、衆議院議員などの要人が臨席し、陪観を許可された者千数百名が列席した。大会の結果は大きく報道され、国民の注目を集めた。参加選士全員に記念章が授与され、優勝選士には宮内大臣から短刀並びに銀盃が授与された。 御大礼記念天覧武道大会昭和4年(1929年)5月4日-5日、昭和天皇即位の礼(御大礼)を記念し、皇居内旧三の丸覆馬場及び済寧館において開催された。 剣道形の演武府県選士の部各府県及び外地の代表者51名が出場した。8ブロックに分かれて総当たり戦(リーグ戦)を行い、各ブロックの勝者が勝ち残り式(トーナメント戦)で優勝を争った。準々決勝から天覧を受けた。
指定選士の部指定選士詮衡委員(川崎善三郎、高野佐三郎、高橋赳太郎、内藤高治、中山博道、門奈正各範士)の選考に基づき宮内省が指定した選士32名が出場した。8ブロックに分かれて総当たり戦(リーグ戦)を行い、各ブロックの勝者が勝ち残り式(トーナメント戦)で優勝を争った。
柔道
府県選士の部49名が出場した。4~5名ずつ12ブロックに分かれて総当たり戦(リーグ戦)を行い、各ブロックの勝者3名ずつが4ブロックに分かれて再び総当たり戦(リーグ戦)を行い、各ブロックの勝者4名が勝ち残り式(トーナメント戦)で優勝を争った。
指定選士の部32名が出場した。8ブロックに分かれて総当たり戦(リーグ戦)を行い、各ブロックの勝者が勝ち残り式(トーナメント戦)で優勝を争った。
皇太子殿下御誕生奉祝天覧武道大会昭和9年(1934年)5月4日-5日、継宮明仁親王の誕生を祝い、皇居内済寧館で開催された。 剣道形の演武府県選士の部各府県及び外地の代表者51名が出場した。12ブロックに分かれて総当たり戦(リーグ戦)を行い、各ブロックの勝者を決め、さらに4ブロックに分かれて総当たり戦によって勝者を決め、4名が勝ち残り式(トーナメント戦)で優勝を争った。
指定選士の部指定選士詮衡委員(高野佐三郎、持田盛二、中山博道、斎村五郎、小川金之助、植田平太郎各範士)の選考に基づき宮内省が指定した選士16名が出場した。前回の天覧試合で範士に優勝試合を行わせたことに対し相当の批判があったため、本大会では指定選士は教士とされた。4ブロックに分かれて総当たり戦(リーグ戦)を行い、各ブロックの勝者が勝ち残り式(トーナメント戦)で優勝を争った。
特選試合特選試合は模範試合とされ、勝敗はつけなかった。
陸軍から選出された軍人2名が出場した。三木五郎陸軍中佐が検証を務めた。
掛かり稽古青少年に対する正しい掛かり稽古の指導が実演された。青少年は東京府知事の推薦によって大学学生、高等専門学校生徒、中等学校生徒、小学校児童から各1名が選ばれ出場した。
柔道形の演武府県選士の部各府県及び外地の代表者51名が出場した。12ブロックに分かれて総当たり戦(リーグ戦)を行い、各ブロックの勝者を決め、さらに4ブロックに分かれて総当たり戦によって勝者を決め、4名が勝ち残り式(トーナメント戦)で優勝を争った。
指定選士の部16名が出場した。4ブロックに分かれて総当たり戦(リーグ戦)を行い、各ブロックの勝者が勝ち残り式(トーナメント戦)で優勝を争った。
特選乱取掛かり稽古
紀元二千六百年奉祝天覧武道大会→「紀元二千六百年記念行事」も参照
昭和15年(1940年)6月18日-20日、神武天皇即位紀元2600年を祝い、皇居内済寧館で開催された。本大会は弓道も実施された。 剣道形の演武
府県選士の部各府県及び外地の代表者52名が出場した。16ブロックに分かれて総当たり戦(リーグ戦)を行い、各ブロックの勝者が勝ち残り式(トーナメント戦)で優勝を争った。準決勝から天覧を受けた。
指定選士の部指定選士詮衡委員(高野佐三郎、中山博道、島谷八十八、小川金之助、持田盛二、斎村五郎、植田平太郎各範士)の選考に基づき宮内省が指定した選士32名が出場した。8ブロックに分かれて総当たり戦(リーグ戦)を行い、各ブロックの勝者が勝ち残り式(トーナメント戦)で優勝を争った。
特選試合特選試合は模範試合とされ、勝敗はつけなかった。
範士8名が出場した。 篤志家試合長年地方において私財を投じて剣道を振興した人物による試合が行われた。中山博道、伊藤精司が審判員を務めたが、勝敗はつけなかった。
柔道
形の演武府県選士の部各府県及び外地の代表者が出場した。16ブロックに分かれて総当たり戦(リーグ戦)を行い、各ブロックの勝者が勝ち残り式(トーナメント戦)で優勝を争った。
指定選士の部指定選士32名が、最初から勝ち残り式(トーナメント戦)で優勝を争った。
弓道弓道の部については試合ではなく演武と称された。1回の演武で一手(2射)行射し、12名の審査員による採点制(2,400満点)で得点上位者が次回演武に進む方式で行われた。府県選士の部は52名が出場し、第4回演武の高得点者3名が、指定選士の部は32名が出場し、第3回目演武の高得点者3名が大会第3日目の天覧演武に出場した。 審査員は、鱸重康、千葉胤次、三輪善輔、酒井彦太郎、堀田義次郎、浦上栄、小澤瀇、小西武次郎、広瀬実光、大島翼、渡辺昇吾、大内義一各範士。 演武に先立ち千葉範士の矢渡が、各演武の前後には審査員(三輪、酒井、堀田、浦上、広瀬、大島、渡辺、大内各範士)の礼射が行われた。また、弓道篤志家演武として松井憲之教士(熊本県)の演武が行われた。 大会三日目の天覧演武は以下の通り。 礼射
府県選士の部
指定選士の部
特選演武脚注注釈出典
参考文献関連項目
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