日吉町中世木
日吉町中世木(ひよしちょうなかせき)は、京都府南丹市の地名。2006年(平成18年)1月1日[6]の南丹市発足以前は、船井郡日吉町の大字・中世木(なかせき)であった[7]。キャッチコピーは「山野草とモリアオガエルの里」[8]。 本項では現在の地名について日吉町中世木、または中世木として記述する。 地理中世木は、南丹市の中部にある世木地区に位置し、淀川水系の上流・桂川(大堰川)の一次支流中世木川沿いや、その周辺の山間に集落群を形成する。 世木地域の地形は左手の手のひらに例えられ、親指が桂川本流、人差し指が中世木川、中指が木住川、薬指が田原川、小指が胡麻川である。それら5河川が合流する一帯が日吉町殿田、中世木川沿いが日吉町中世木、木住川上流が日吉町生畑、下流が日吉町木住となり、これら4集落で現在の世木地域を構成している。親指に当たる部分にあった集落(中、天若)は、1972年(昭和47年)に着手した日吉ダムの建設で廃村している。 日吉町中世木と日吉町中との境は厄除橋付近。京都市右京区京北下宇津町の境は人尾峠で、峠にある地蔵には「右うつ京」「左まき山志うざん」と書かれている。 中世木の小字南丹市が公示している日吉町中世木の住所は次の通りである[9][10]。
河川
山
谷
糸掛石糸掛石 (いとかけいし)と呼ばれる鉱物が中世木の山で見られる。砂岩に石英が入り、糸を掛けたように見える鉱物で、古くは「加茂七石(かもなないし)」として貴族や武家の庭石として重宝された。中世木公民館にも展示されている[11]。 気候・植生・生態気候梅雨期から台風期までの夏季は降水量が多い太平洋側気候の特徴を示し、比較的に涼しい高原的気象で昼夜の寒暖の差が大きい。 冬季は冷え込み日較差が大きい内陸性気候を示す反面、日本海側気候の影響を受けて季節風が吹き、降雪や積雪がみられるが、丹波地方の北部に比べると比較的温暖で降霜・降雪量は少ない。 植生植生区分は暖帯常緑広葉樹林(ヤブツバキクラス域)に属しているが、ほとんどは代償植生となっている。植林されたスギが多い。スギは1982年(昭和57年)、日吉町の「町の木」に制定されている。 セツブンソウセツブンソウの群生が、中世木で見られる[11]。中世木せつぶん草を守る会による保護活動や、守る会と中世木区の共催による「中世木せつぶん草まつり」が行われてきた。旧暦の節分頃に花を咲かせることから、春を告げる花とされる。中世木で咲く花は、雄しべ雌しべ辺りが白く、他の地域ではあまり見られない白い花。 レンプクソウ山地では、レンプクソウの自生が見られる[11]。山地に生える多年草で、茎の高さは10cm程度、地下茎で増え、茎の先に直径5mmほどの黄緑色の花が5個集まって咲く。 ベニバナヤマシャクヤク京都府レッドデータブックで「絶滅危惧」のカテゴリーとなっているベニバナヤマシャクヤクが中世木に自生している。ベニバナヤマシャクヤクは一般的に濃い赤色から薄いピンク色をしていることからベニバナと呼ばれているが、中世木に自生しているものはほとんど白色の花を咲かせる[11]。 オニヒカゲワラビ世帯数と人口2015年(平成27年)頃から移住促進の取り組みを進めて元人口の2割近い転入者があり、現在、限界集落と準限界集落を行き来している状態が続いている[12]。2024年(令和6年)5月1日現在の世帯数と人口及び、エリアごとの中世木人口割合は以下の通りである[3][13]。
人口の変遷国勢調査による人口の推移。
世帯数の変遷国勢調査による世帯数の推移。
中世木に多い姓旧日吉町の世帯別で多い姓は、湯浅(ゆあさ)・吉田(よしだ)・塩貝(しおがい)でほぼ同数、次に宇野(うの)や小林(こばやし)と続く[20]。中世木では近年の移住者人口の割合が増えていることから、徐々に偏りがなくなっているが、2024年(令和6年)時点では近藤(こんどう)姓が多い[20]。 自治中世木地内の自治は、中世木区が治めている。
組構成中世木内の組割は次の通り。
歴史沿革
伝承安部貞任伝説平安時代に岩手県辺りを支配していた豪族・安倍貞任は、源義家らに都で処刑され、怨念を断つため、首を貞任峠、下半身を中世木の人尾峠に葬ったと伝わっている[11]。 北条時頼伝説鎌倉幕府五代執権北条時頼は出家後、最明寺入道とも呼ばれ、諸国を歩いたという伝説が各地に残っている。中世木牧山の大山祇神社に寄った時、法華経を書写し裏山の山中に埋めたと言われている。その山を最明寺山、塚を最明寺の経塚と呼び、今でも見ることができる[11]。また、東の谷に「西妙寺竹」があり、最明寺入道が逆さに刺し置いた竹の杖から、逆さの竹が生えているという伝説がある[23]。 人面岩牧山の不動岩のてっぺんからさらに山へ登ると人面岩があるらしい[24]。 弁天井戸の鰻中世木の大山祇神社の境内には「弁天井戸」という井戸がある。井戸には耳の白い鰻が棲んでいるが、いつも井戸底にいて滅多に姿を見せない。この鰻が水面に顔を出した時は、必ず雨が降ると伝えられている[25][26][27]。 大阪に隠した金銀1619年(元和5年)頃、大阪が落城したとき、この村の百姓で伯楽の人がいた。大阪が落城したときに放れ馬を拾うとして行ったが、そこで、大野主馬助(治房)や大野修理(治長)などの兄弟である大野道賢齋と出会う。道賢齋がこの百姓を頼りにして2人とも裸馬を拾って乗り、淀川を越えて下谷村に来た。 道賢齋は、下谷村に隠れ住むようになる。昼は人目を忍んで大夫谷の森に隠れ、夜は百姓の家に来て寝た。そのようにしてしばらく隠れ住んでいたが、その百姓に「わしは多くの金銀を大阪の地に隠して埋めておいた。おまえがわしを別状に送ってくれるのなら金銀をおまえに半分わけてやろう」と言って騙して百姓に道中の供をさせ、大阪に着いた。さきに言った所を掘ってみたが金銀はなかった。「ああこれは、もはや誰かが取っていったのだ」と言って、道賢齋は姿をくらませてしまった。百姓は下谷村に帰ったとのことである[23]。 夜泣石世木村の中世木には“夜泣石”という石が転がっている。江戸時代、園部藩主・小出氏の命で城の庭石を集めていた時、この石は他の所へ運び出されることを悲しみ、夜泣きをした。運搬する者は気味悪がり、石を世木村に捨てていったという[28][29][27]。 九右衛門寒い昔、世木村の九右衛門という男が、岩の上に生えていたツタを採って家に持ち帰った。それから毎晩、どこからともなく「九右衛門寒い。九右衛門寒い」という不気味な声がするようになった。九右衛門が採ったツタは狸が巣に使っていたもので、それを壊したことを怒って訴えに来たのだという[25][30][27]。 交通道路府道
橋
有料道路 最寄りの乗り降り口
鉄道 最寄りの駅路線バス
林道
峠
施設南丹市設置
区の管理運営
社寺・民俗・宗教大山祇神社大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)は、中世木牧山にある。祭神は蔵王権現。 八幡神社中世木下谷にある八幡神社(はちまんじんじゃ)は、かつて日吉町中にあった八幡宮を分霊したもの。祭神は応神天皇。 愛宕神社中世木の愛宕神社(あたごじんじゃ)は、東牧山(京北方面)と西牧山に行く道の分岐点に鎮座している。祭神は火産霊命。 普門院普門院(ふもんいん)は、中世木牧山にある高野山真言宗の寺院。普門院は院号で、山号は補陀洛山、寺号は神興寺。日吉町殿田の成就院が兼務。牧山の松明が行われる[35]。かつては「慈眼山 垣ノ坊 普門院」という大きな寺であった。明智日記には、天正の頃、桑田郡下縄野(周山町、現在の京都市右京区京北)に城を築くとき、近郷の寺塔を壊して材木を集めさせたとある。普門院も寺塔庫裏の木材を採られ、のちに火を放たれ、焦土となった。焼け残りの仏像やお経を村人が集めて氏神の社に納めたという[23]。
念佛寺念佛寺(ねんぶつじ)は、中世木小谷口にある浄土宗の寺院。山号は称名山。1658年(万治元年)の創建で、伝教寺の長誉義光上人の開山とされる。 賀善寺賀善寺(がぜんじ)は、1473年(文明5年)創建の寺院。念佛寺の境内にある。賀善寺の丸柱には明智光秀が周山城の用材として徴発するための刻印が残っており、長さが不足していたために結局徴発されなかったとか[11]、あまりの山道で人足がたくさん入用でやめたとか[23]といわれている。 宝勝寺慈晴教会慈・教会は、中世木宮ノ元にある本門法華宗の教会。 不動岩・不動明王牧山につながる一本道の中ほどに、「不動岩」という巨岩がそびえ立つ。かつては、岩の上に不動明王が祀られ、そこで盆踊りが行われていた。岩の上まで登るのが大変だという理由で、不動明王は岩下に移された。 地蔵
文化財中世木にある指定および登録の文化財は次の通り[36]。
行事牧山の松明牧山の松明は、8月24日の夜、盂蘭盆に行われる万灯籠と愛宕山信仰が習合した祭り。牧山の普門院で高さ4mほどの松明3本を扇形に組み、日没とともに点火される[11]。 中世木棚田ひなまつり11月頃、棚田を使った雛祭りが行われていた。棚田を雛壇にしてパネルの雛を飾る祭りで2011年(平成23年)から始まり、毎年秋に雛が1体ずつ増えた。 生活水道上水道 簡易水道 下水道 個人の浄化槽 葬儀
NTT固定電話同じ南丹市内であっても、園部MAの日吉町中世木と、亀岡MAの八木町地区の相互通話には、市外局番 (0771)が必要である[5]。
日本郵便
電気
学校小・中・高校の学区市立小・中学校及び府立高校の学区(校区)は以下の通りとなる[41][42]。
中世木にあった学校(執中校)日吉町にあった片野、木住、稗生、小畑、安鳥、上谷、下谷、牧山、中村、世木林、宮村、上世木、殿田の各村と、今の園部町船岡にあった上河内、藁無、松尾の計16村でつくる組合で運営していた「知新校」(1872年設立)から独立し、1879年(明治12年)に「執中校」が開校。その後、1887年(明治20年)に「知新校」「執中校」「楽生校」が合併して「世木尋常小学校」となるまで、中世木単独での学校運営が続いた。1892年(明治25年)、小学校令の改正で、中世木、生畑の分教場は分離して再び独立。1955年(昭和30年)4月1日、三村合併による日吉町誕生に合わせ、世木小学校、生畑、中世木、天若分校、五ヶ荘小学校の田原分校、胡麻郷小学校志和賀分校の計6校を廃止して日吉町立殿田小学校となる。 第一次産業農業
林業
救急・防災関連自動体外式除細動器(AED) 近隣の設置場所
消防署及び消防団
医療圏にある災害拠点病院
災害対策用ヘリコプター離着陸場避難所収容避難所[49]
一時避難所
臨時避難所
防災行政無線災害情報や行政情報などを、音声で伝える通信設備。家庭などに設置している「戸別受信機」と小学校などにある「屋外拡声子局」から音声が発せられる。区などに貸し出されている「地区遠隔制御装置」からも集落内放送ができる。 毎日12時と17時には、動作確認として時報の音楽が流される。12時が「エーデルワイス」、17時が「夕焼け小焼け」。
サイレン吹鳴火災時にサイレン吹鳴がある。中世木では毎月1日21時、動作確認と火災予防啓発のため、サイレン吹鳴が実施される。そのほか、春と秋の火災予防週間にも鳴らされる。
公衆無線LAN(Nantan Free Wi-Fi)設置場所[50]近隣の公衆電話設置場所[51]地震被害の想定日吉町中世木の想定震度及び液状化の危険度[53]、断層タイプ(変位)は次の表の通り[54][55][56][57]。
その他中世木のコード
地域指定及び区分
所轄局(所・署)
中世木を舞台・ロケ地とした作品
脚注
参考文献関連項目
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