扇映画プロダクション
扇映画プロダクション(おうぎえいがプロダクション)は、かつて存在した日本の映画製作会社である[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10]。略称扇映画[1][2][3][4][6][7][8][9]。短命であったが、独立系成人映画の黎明期にあって、脚本家・助監督を務めていた渡辺護を監督に抜擢し、渡辺の初期9作を製作したことで知られる[1][2][3]。 日本映画データベース等に一部みられる「翁映画」あるいは「葵映画」[8]は誤り[1][2][3][11]。 沿革概要渡辺護を監督に抜擢1965年(昭和40年)4月、斎藤邦唯(1929年 - )[12][13][14][15][16]が代表となり、東京都に設立した[4]。創業者の斎藤邦唯は、もともと文学座出身の俳優であり、第二次世界大戦後の1954年(昭和29年)に製作を再開した日活に一時在籍、その後は草間百合子、滝口順平らとともに衣笠プロダクションに所属していた[12]。1960年(昭和35年)に放映されたテレビ映画『アラーの使者』(監督近藤龍太郎)に「宇野刑事」役で出演した後に製作に転向[16]、渡辺護の回想によれば、1964年(昭和39年)には、渡辺が助監督を務めた『悶える女子学生』(監督南部泰三、同年11月公開)の製作を務めていたという[17]。斎藤は、同社設立第1作の製作にあたって、渡辺に成人映画を撮れる監督の紹介を依頼、渡辺はかつて師事した西條文喜(1921年 - 1988年)を推薦、吉田義昭(1932年 - 1989年)とともに脚本を準備するが、脚本完成段階で西條が降板、急遽、渡辺が監督に起用されることになったという[18]。これが渡辺にとっても監督第1作である『あばずれ』であった[18]。同作のスタッフ編成に協力した関喜誉仁(1923年 - 没年不詳)は、竹野治夫、村瀬栄一といったヴェテラン撮影技師、照明技師を確保、同作のクォリティを築いた[18]。関は、マキノ正博が所長を務めていた時代の松竹下加茂撮影所から、戦後の日活に移籍した映画監督であった。クレジット上は吉田義昭は「吉田貴彰」、竹野治夫は「生田洋」、村瀬栄一は「村井徹二」といった変名を使用し、関喜誉仁は「沖弘次」の名で「監修」に名を連ねた[19]。 同作の次には、関喜誉仁が「沖全吉」の名で『嬲る』『妾の子』の2作を監督、同社はそれらを製作した[11]。同社の製作物は、『あばずれ』『嬲る』を新東宝興業(現在の新東宝映画)が、『妾の子』と『情夫と牝』(監督渡辺護)を桑原正衛が同年5月26日に設立したムービー配給社(のちの関東ムービー配給社)が配給、『紅壺』(監督渡辺護)を井上猛夫が前年1964年10月1日に設立したセンチュリー映画社と、矢島常二(1900年 - 1981年)が1964年4月に大阪に設立した日本セントラル映画の2社が棲み分けて配給した[1][20][21]。明けて1966年(昭和41年)1月に公開された『浅草の踊子 濡れた素肌』(監督渡辺護)、続けて同年2月に公開された『女の狂宴』(監督渡辺護)は、センチュリー映画社が配給したが、同年上半期、センチュリー映画社が倒産してしまい[22]、同年3月22日に公開された『うまず女』(監督渡辺護)以降は、すべて大蔵映画が配給することになった[1][2][3][9][10]。しかしながら、同年8月23日に公開された『女子大生の抵抗』(監督渡辺護)を最後に、同社の製作する作品のクレジットを見ることがなくなった[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10]。事実上の活動停止である。斎藤邦唯の以降の活動は不明であるが、生前の渡辺護(2013年12月24日死去)は、斎藤とは「まだつきあいがあります」と語っていた[17]。 再評価同社の製作物のうち、上映用プリント等が現存するのは、東京国立近代美術館フィルムセンターが所蔵する『紅壺』のみと考えられていたが、2014年(平成26年)、同社の第1作『あばずれ』の16mmフィルム版上映用プリントが発見され、同年12月5日 - 同9日に神戸映画資料館で行われた「渡辺護 はじまりから、最後のおくりもの。」の特集上映で同作が上映された[23]。『紅壺』についても、同年10月25日 - 同月31日にユーロスペースで行われた「渡辺護追悼 そして『たからぶね』の船出」の特集上映でデジタル上映が行われている[24]。デジタル・ミームは同社の製作物を所蔵しておらず[25]、事実上、同2作以外の作品は現存が確認されていないが、井川耕一郎らを中心に脚本等を基にした研究・再評価が進められている[18]。 企業データおもなフィルモグラフィすべて「製作」である[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10]。東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、デジタル・ミーム等での所蔵状況も記した[7][25]。 1965年
1966年
脚注
参考文献
関連項目外部リンク
|
Portal di Ensiklopedia Dunia