慕容沖
慕容 沖(ぼよう ちゅう)は、五胡十六国時代の西燕の初代皇帝。なお、皇帝を名乗っていないが西燕の実質的な創建者は慕容泓である。前燕の初代皇帝慕容儁の子で、第3代慕容暐の弟。 383年の前秦の淝水の戦いでの大敗の後、慕容泓の独立政権を部下に擁立されて継ぎ、長安の周辺を支配した。386年、鮮卑の故地へ帰りたがった部下に従わなかったため殺された。その後西燕は、皇帝が次々に擁立されては殺され、最終的に慕容永の下で鮮卑の故地へ東進する。 生涯前燕では中山王に封じられていた。368年、亡くなった慕容恪の後を継いで大司馬となった。建熙11年(370年)に前燕が前秦により滅ぼされると、兄の慕容泓など鮮卑慕容部族と共に関中へと移住した。美少年と名高く、捕虜でありながら前秦の天王苻堅の寵童となった。 建国建元19年(383年)に前秦が淝水の戦いで敗退、国内の各部族の影響力が弱まると、翌建元20年(384年)に叔父の慕容垂が河北で叛乱を起こした。この時、前秦から平陽郡太守に任じられていた慕容沖も河東で挙兵したが、前秦の竇衝に敗れて慕容泓の陣営に合流した。慕容泓は華陰で独立政権を樹立したが、法に厳しい慕容泓より慕容沖の方が皇帝に相応しいと考えた高蓋などにより殺害された。前燕の最後の皇帝の慕容暐が前秦の下で健在だったため、慕容沖は皇太弟として擁立された。前秦の苻堅は和を結びたがったが、慕容沖は拒絶した。翌年、慕容暐と慕容粛は鮮卑の部族を糾合し、造反して慕容沖との合流を計画したが、露見して苻堅に市街で処刑された[1]。 即位後これを聞いた慕容沖は長安に入城して阿房宮にて皇帝に即位し、更始と改元した。慕容沖の支配下で長安は飢餓に陥った。さらに、関中での兵の掠奪を許した。同年夏、苻堅が資源を求めて不在の間、慕容沖は太子の苻宏を破った。その後、慕容垂が建てた後燕の勢力が強大であるため、鮮卑の故地への帰還を放棄し、長安での安住策を採用した。これが部下の反発を呼び、更始2年(386年)に左将軍の韓延によって殺害され、段随が代わりに擁立された[2]。 宗室
【慕容氏諸燕系図】(編集) 父子
脚注 |
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