慕容盛
慕容 盛(ぼよう せい、拼音:Mùróng Shèng)は、五胡十六国時代の後燕の第3代皇帝。 第2代皇帝慕容宝の長子で、慕容宝が蘭汗の謀反で殺されると即位した。治世の大部分は「庶人天王」を名乗った。慕容盛は冷静聡明で謀略に優れていたが、父慕容宝の優柔不断さが生んだ国難に懲りて、その治世は威刑を施す猜疑心の強いものとなった[1][2]。401年、謀反によって殺され、叔父の慕容熙が後を継いで即位した。 生涯幼年慕容盛は建元9年(373年)に前秦の部将であった慕容宝と丁太后の子として生まれた。祖父の慕容垂は建元20年(384年)に前秦から独立して後燕を建国した。建元21年(385年)、前秦天王の苻堅が慕容暐の反乱を受けて長安に移住していた鮮卑慕容部の千余人の処刑を命じたが、慕容盛の叔父の慕容柔は宦官の宋牙に養われていたことがあったため被害から逃れた。この時、慕容柔は慕容盛と共に長安付近で前秦に反乱していた慕容沖の下へ奔った[1]。 西燕時代建元21年(385年)春、慕容暐が処刑されたことを受けて慕容沖は西燕の皇帝に即位した。しかし12歳[3]の慕容盛は慕容沖は大成しないだろうと評価した[1]。同年夏に慕容沖が長安を占拠すると、配下の鮮卑人はそのまま長安に移住することに賛成せず、東の故地に帰りたがった。翌年、配下の部将の1人が慕容沖を暗殺し、西燕軍は長安を棄てて東進した。東進に反対した五人の皇帝を数ヶ月間で入れ替えたのち、皇帝は慕容永に落ち着いて、西燕で慕容盛は慕容柔や慕容会と共に長子(山西省)に移住した[1][4]。 同年冬、慕容盛は慕容柔と慕容会に、西燕皇帝に皇統の関係から疎まれていることを相談して、三人は慕容垂の後燕に奔った[4](ちなみに西燕皇帝は後年に慕容垂の子孫をことごとく誅殺している[4])。慕容垂は自ら三人は後燕の都中山(河北省)に迎えた。慕容垂が14歳の慕容盛に西燕の事情を聞くと、慕容垂が仁政を敷けば西燕軍は皇帝を棄てて後燕に帰するだろうと答えた[1][4]。慕容垂は喜び、慕容柔を陽平王に、慕容会を清河公に、そして慕容盛を長楽公に封じた[4]。 後燕の部将慕容垂時代後燕で慕容盛は建興4年(389年)に薊城に任じられ、前燕の旧宮を修復した。建興6年(391年)正月、録行台文書事を加えられた[5]。395年、父で太子の慕容宝が北魏に参合陂の戦いで大敗すると、慕容垂は龍城の慕容隆と共に慕容盛を都中山に呼び戻し、翌年の北魏への復讐に備えさせた。建興11年(396年)、慕容垂は北魏への反撃に優位に立っていたが、参合陂の惨状を見て病を発し、中山へ帰還する道中に死去した[6][7]。慕容宝が後を継いだ。 慕容宝時代即位にあたって慕容宝は後継問題に悩まされた。慕容会は器や人望があって慕容垂に愛されていたため、慕容垂は太子にするよう遺言していたが、慕容宝は少子の慕容策を愛していた。慕容盛も慕容麟と共に慕容策を勧め、同年冬に慕容宝はその通りに慕容策を太子に立てた。慕容盛と慕容会は王に封ぜられたが、慕容会は太子になれなかったことに怒って反乱を考えた。同年、北魏が後燕の并州を奪って都中山を包囲した。永康2年(397年)春に慕容麟が反乱したこともあって、慕容宝は中山を棄てて龍城に奔走した。慕容盛はこの時共に龍城から南進していた慕容会と合流した。しかし、慕容会は叔父の慕容隆を殺し、慕容農に重傷を負わせた。のちに慕容会は反乱するが殺される[8]。 永康3年(398年)、慕容盛と慕容農が切に諌めたにもかかわらず、慕容宝は慕容盛に龍城の留守を任せて、北魏に奪われた領土の奪回に出兵した。道中で疲れた軍が逆らった(段速骨の乱)ので慕容宝は龍城に帰還して守った[9]。しかし慕容農が降伏して龍城が陥落したため、慕容宝と慕容盛は薊城に奔走せざるを得なかった。蘭汗が龍城を取り戻すと慕容宝を迎え入れようと言った。これを信用しなかった慕容盛は慕容宝に南進して慕容徳と合流することを助言した。これは慕容徳が鄴を守っていることが前提の案であったが、慕容徳は既に滑台で後燕から独立し、南燕を建国していた。慕容宝と慕容盛は黎陽でこれに気づき、恐れて北に帰った。慕容盛は北魏に占拠された冀州の豪傑と結んで機会を伺おうとしたが、慕容宝は蘭汗の忠誠心を信じて龍城に帰還した。慕容盛は固く諌めたが、慕容宝が聞き入れなかったので身を隠した[10]。 慕容宝が龍城の外邸に入ると、すぐさま蘭汗の弟の蘭加難が軍を率いて慕容宝を殺した。蘭汗は慕容策など慕容氏の皇族を大勢殺し、昌黎王を自称して後燕を継承するとした[9]。 蘭汗時代慕容盛はこれを聞いて悼みに龍城に戻った。これは蘭汗が慕容宝を殺した後の懺悔と同情心に期待したためと、蘭汗の娘を娶っていることに頼った行動である。蘭汗の兄弟は慕容盛を殺したがったが、結果的に蘭汗の娘と妻の乙氏の哀願で慕容盛は許され、侍中・左光禄大夫とされた[9]。蘭汗は太原王の慕容奇(慕容楷の子、蘭汗の外孫)も殺さなかったが、慕容奇は慕容盛と謀って龍城を出て建安で挙兵した。慕容盛はその間に蘭堤が慕容奇と謀っていると蘭汗に教えた。この時、龍城は旱魃になっていたため、蘭汗は燕の諸廟に詣で、慕容宝を殺した罪を蘭加難に委ねた。これらの件を聞いて蘭堤と蘭加難は怒って反乱した。この頃、太子の蘭穆は慕容盛の殺害を蘭汗に勧めたが、蘭汗は慕容盛が仮病を使ったので止めた。7月、蘭穆が蘭堤や蘭加難の反乱を鎮めると、宴を開き酔いつぶれて、慕容盛の集めた兵に殺された。慕容盛は自ら長楽王と称し、帝位を代行した。8月、慕容盛は黄龍で皇帝に即位、改元して建平とした[1]。 即位後慕容盛の即位は喜ばれたが、その治世は厳しく残酷なものであった。蘭汗が誅殺されると娘の蘭氏も連坐されかかった。丁皇后が蘭氏が慕容盛の助命を手伝ったことから反対し、連坐は逃れたが皇后にはなれなかった[9]。建平元年(398年)冬、正式に即位して献荘太子慕容令を献荘皇帝に、慕容宝の后段氏を皇太后に、丁氏を献荘皇后に追尊した[1]。慕容策は献哀太子とした[1]。長楽2年(400年)前後、子の遼西公の慕容定を皇太子とした。また、「庶人天王」と名乗った。 長楽3年(401年)秋、部将の慕容国、秦輿、段讃(段末波の孫、段聡の子)が謀反で慕容盛を襲ったが、発覚して500人以上が殺された。すると五日後に段璣、秦興(秦輿の子)、段泰(段讃の子)が禁中に潜んで鼓噪大呼した。慕容盛はこの変を聞いて左右を率いて戦い、賊を潰走させたが、にわかに賊の1人が暗中に慕容盛を刺した。慕容盛は傷を負ったまま前壇に登り禁衛を動かすと、場を落ち着けてから卒去した[2]。 29歳で死去、在位三年目である。諡号は昭武皇帝、廟号は中宗、陵墓は興平陵[1]。丁太后の協力で皇太子の慕容定ではなく叔父の河間公慕容熙が後を継いで皇帝に即位した。 治世慕容盛の治世はその才と同時に厳格を反映したものであった。猜疑心が強く、結果として多くの造反の疑いを生んでは誅殺した[9][11]:
法への態度は厳格で、10日に1日は自ら裁判し、拷問を加えることなく多くの事情を得たという[11]。北魏との戦いでは互いに進展を見せなかった。長楽2年(400年)には高句麗に兵三万を自ら率いて襲い、慕容国を先鋒として新城と南蘇の二城を抜き、国境の七百余里を開き、五千戸を奪還した[11]。 宗室
【慕容氏諸燕系図】(編集) 脚注
参考資料 |