御稲御倉
御稲御倉(みしねのみくら、ごとうのみくら[1])は、伊勢神宮皇大神宮(内宮)の所管社。御稲御倉神(みしねのみくらのかみ)とも称する[2][3][4]。内宮の宮域内、荒祭宮に向かう道の途中に鎮座する[2]。 小さいながら、内宮と同じ唯一神明造の神社である[2][5]。 概要三重県伊勢市宇治館町、内宮の宮域、正宮の北西に鎮座する[5]。内宮の所管社30社のうち第6位である。内宮の正宮で祭が行われるたびに御稲御倉でも祭祀が行われる[2]。御稲御倉の北には外幣殿(げへいでん)がある[1]。 神宮神田で収穫されたイネは抜穂(ぬいぼ)にして、御稲御倉へ納められる[2]。御倉のイネは内宮の祭祀に合わせて取り出され、大御饌として天照大神に捧げられる[2][5]。すなわち内宮穀倉として利用されている[5]。古式に則り、装束をまとった神職が御倉へ納める[6]。御倉からイネを取り出すことを御稲奉下(ごとうほうげ[6]、みしねほうげ[7])と称し、前日から参籠潔斎(さんろうけっさい)した神職が行う[6]。奉下されたイネは稲扱(いねこき)、籾摺(もみすり)、七分搗きにした後、忌火屋殿で神酒・御餅・御飯(おんいい)に調理され、神前に供される[7]。 なお、神宮式年遷宮の祭事の1つで、正殿の床下に柱を立てる「心御柱奉建」(しんのみはしらほうけん)で用いる心御柱も御稲御倉に納められる[8]。 社殿は唯一神明造である[2]。内宮の方角(東)を向いて建っている[2]。高床の切妻屋根で、千木・鰹木を備えるなど、内宮の東西宝殿や外幣殿に酷似した構造である[1]。高床であるため、御稲奉下の際には取り外し可能な階段を取り付け、権禰宜が御鑰(みかぎ)を開錠して御扉を開き、イネを取り出す[9]。玉垣や賽銭箱はない。 祭神祭神は御稲御倉神(みしねのみくらのかみ)[2]。御稲御倉の守護神である[2][5]。神宮式年遷宮に伴って社殿が建て替えられる際には、御稲御倉神は一時的に外幣殿に遷座する[10]。 平安時代の『大治御形記』には保食神(うけもちのかみ)とあり、鎌倉時代の『神名秘書』ではウカノミタマとする[11]。 歴史古代より存在したと考えられる[6]。調御倉(つきのみくら)・御塩御倉・鋪設御倉・御稲御倉・御稲御倉の4棟で1組として板垣外の西方に建っていたが、平安時代中頃より、外幣殿と4棟1組は外玉垣の内側に入った[12]。当時は神明造ではなく校倉造で、千木・鰹木はなかったようである[13]。正宮の敷地内にあったので式年遷宮のたびに移動していたが、中世の末に4棟とも廃絶した[13]。 御稲奉下は禰宜・大内人ら4名が大物忌(おおものいみ)と大物忌父を伴って執行していた[6]。この時の服装は、内宮で祭儀を行うのと同じ官給の明衣(きよぎぬ)であり、如何に重要な神社であったかが分かる[6]。奉下されたイネは大物忌の子らは臼で撞き、竈(かまど)で蒸し、炊き上がったご飯を笥(け)に盛って神前に供された[4]。御飯は内宮・荒祭宮・滝祭神に捧げられた[4]。 天正年間(1573年 - 1592年)に4棟のうち、正宮の北西に御稲御倉のみ神明造で復興され、以後式年遷宮ごとに建て替えられた[13]。室町時代以降は御稲御倉で神嘗祭の織御衣(おりのみそ)がここで織られたので、御機殿の異名を持っていた[13]。 明治以降、御稲御倉神が祀られるようになり、1889年(明治22年)には荒祭宮へ向かう道の途中に鎮座位置が固定された[13]。 交通
脚注
参考文献
関連項目外部リンク
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