幽霊駅幽霊駅(ゆうれいえき、独: Geisterbahnhof ガイスターバーンホーフ)とは、駅として使われなくなったものの構築物が撤去されずに残されている駅。薄暗い明かりのもとで特に不気味さを感じさせるような駅に対しても用いられる。また、建設はされたものの実際に使われずにいる駅を含めて指すこともある。 本来、冷戦期に分断されたベルリンの閉鎖されていたUバーン(地下鉄)とSバーン(都市鉄道)の地下駅に対して用いられていた言葉だが、その後、使用されなくなった鉄道駅を指す呼称として一般化した。 また、ドイツ語の Geisterbahnhof の複数形は Geisterbahnhöfe(ガイスターバーンヘーフェ) となる。 本項目では、ドイツをはじめ日本以外の駅名について、原則的に原語における名称をすべて仮名文字で表記し、その末尾に「駅」を付すことで駅名であることを明示する。 ベルリンの幽霊駅背景1961年8月、ドイツ民主共和国(東ドイツ)政府はベルリンの壁を建て、東西ベルリンの往来を遮断した。公共交通網もこれにより東西で分断されることになり、鉄道路線も壁の手前で折り返し運転せざるを得なくなった。しかし、起点と終点が西ベルリン側にあり、中間の一部区間のみ東ベルリンを通る地下路線(UバーンのU6、U8とSバーンの南北地下線)については、東ベルリンに位置する駅を、一部の例外を除いて通過することで対応した。故に東側の市民は多くの駅が使えなくなり、そして西側の市民はそれらの駅に降りる事ができなくなった。薄暗闇に浮かび上がる、堅固に封鎖された不気味な通過駅を見た西ベルリン市民の乗客は、いつしかそれらを「幽霊駅」と呼ぶようになった。 当時の西ベルリンの路線図では、幽霊駅にはBahnhöfe, auf denen die Züge nicht halten(列車が停車しない駅)とだけ記されていた。一方東ベルリンの路線図では、西側の地下路線や幽霊駅は削除され、表記されなくなった。 西ベルリンの地下鉄の乗客に対して、東西ベルリン境界手前の駅では、案内看板と車内放送により注意が促された。Uバーン8号線 (U8) の車内放送は次のようなものである。Voltastraße. Letzter Bahnhof in Berlin-West. Letzter Bahnhof in Berlin-West. ―「ヴォルタシュトラーセ。西ベルリン最後の駅です。西ベルリン最後の駅です」。その後地下鉄は、6つの幽霊駅と東ベルリン中心部地下を通り過ぎて再び西ベルリンに入り、モーリッツプラッツ駅に停車した。1972年の米英仏ソ4国によるベルリン4か国協定締結以来、この案内放送が大きく流されることとなった。Letzter Bahnhof im Westsektor, letzter Bahnhof im Westsektor―「西側最後の停車駅、西側最後の停車駅」。1950年代には、保護供与国について車内放送がされていた。Letzter Bahnhof im amerikanischen Sektor―「米国保護区最後の停車駅」。 また、西ベルリン側Uバーンの東ベルリン通過区間の維持管理には、大きな問題や困難があった。たとえば東ベルリン域内で車両が故障した場合、乗客は車内に残って、東の国境警備隊が到着して外へと誘導するのを待たねばならなかった。このほか、東ドイツ政府は、これら地下路線も東西で分断し、東側通過区間を東ベルリンのために使うことを何度もほのめかした。しかし、これが現実のものとなることはなかった。 なお、幽霊駅という名称だが「無人駅」ではなく、駅には東ドイツの国境警備隊が配置され、駅と列車を監視していた。 幽霊駅を含むベルリン地下鉄路線の概略以下に、幽霊駅とその近傍の駅を挙げる。西ベルリンに属することが明記していない駅が幽霊駅であった。
特殊な事情を有していた駅フリードリヒシュトラーセ駅フリードリヒシュトラーセ駅は、東ベルリン域内に位置する駅であるものの幽霊駅とはならなかった。これはUバーンのU6、Sバーンの南北地下線および市街線(東西方向の高架線)、および長距離列車の乗換駅だったこと、ならびに、俗にトレーネンパラスト(「涙の宮殿」)と呼ばれる国境検問所が存在したためである。西側UバーンとSバーンは、出口が厳重に塞がれた長い連絡通路で結ばれていた。 ただし、駅構内は、西ベルリン側利用者用の区域と東ベルリン側利用者の区域で完全に分けられており、西側の利用者が国境検問所を通過せずに東側に入ることはできなかった。文字通り東ベルリンに周囲をぐるりと取り囲まれていた西ベルリン側利用者用区域は、さながら飛行機を乗り継ぐ国際空港のようだった。なお、西側利用者区域には東ドイツ国営チェーンのインターショップの売店が置かれ、西ベルリン市民向けに特別に営業しており、とりわけ免税の酒や煙草が販売されていた。 フリードリヒシュトラーセ駅には、他と趣を異にする路線図が掲示されていた。これは幽霊駅以外の全ての西側線を記したうえで、市を "Berlin, Hauptstadt der DDR"(ドイツ民主共和国首都ベルリン)と "Westberlin"(西ベルリン)の二つに分けて示した、ベルリンの東西の分断を痛切に感じさせるものだった。 ボルンホルマー・シュトラーセ駅Sバーンのボルンホルマー・シュトラーセ駅も幽霊駅のひとつに数えられる。この駅は、S2線のゲズントブルンネン駅とヴォランクシュトラーセ駅の間にあり、東ベルリン区域に隣接していたが、地上駅だった。駅舎は国境が交差しており、西ベルリン市民は立ち入りもできたが、西ベルリンの地下鉄はこの駅で停車することなく通過した。ベルリンの壁崩壊前の段階でも、この駅を利用可能にしようとする計画があった。また、東ベルリンのSバーン車両が同じ駅の反対側の線路を通っていた。東と西それぞれの軌道敷の間は高いフェンスが塞いでいた。 ヴォランクシュトラーセ駅そのほかの風変わりな駅としては、ヴォランクシュトラーセ駅がある。ボルンホルマー・シュトラーセ駅と同じように、西ベルリンにより運行されていたSバーンの駅だが国境線すぐ外側の東ベルリン域に位置していた。しかし、ヴォランクシュトラーセ駅は出入口の片側が西ベルリンの通りにあったため、西ベルリン市民が普通に利用することができた。この出入口はちょうど国境上に位置しており、すぐ隣に掲げてある警告掲示が乗客にその事実を知らしめていた。東ベルリンに通じていたこの駅の反対側の出入口は、完全に封鎖されていた。 幽霊駅の「復活」1989年11月のベルリンの壁崩壊後、最初に幽霊駅の構内に足を踏み入れた人々は、まさに幽霊駅という名前通りの情景を目にすることになった。そこには、東西に分断された1961年以来なにひとつ変わっていない広告や駅標識が、亡霊のごとく佇んでいた。現在は新しいものに取り換えられている。 交通機関として復帰した最初の幽霊駅はヤノヴィッツブリュッケ駅 (U8) で、1989年11月11日、壁崩壊のわずか二日後のことである。フリードリヒシュトラーセ駅と同様に検問が設けられ、東ドイツ税関と国境検問所が暫定的に置かれて、乗客の東ベルリン往来にお墨付きを与えた。急ごしらえの手書きの矢印通路案内板が、1961年以前の古いものと置き換えて壁に掛けられた。なおこれらの案内板はどれも、経年による痛みや1961年以降の地下鉄ターミナル駅の拡張事業の間に四散してしまっている。1989年12月22日、ローゼンターラー・プラッツ駅 (U8) も、同様の仮検問が置かれたうえで駅業務を再開した。 1990年4月12日、3番目の再開通駅はベルナウアー・シュトラーセ駅 (U8) である。この駅は北口が地上に直通しており、検問通過の必要なしに西ベルリンへ行くことができた。東ベルリンへ通じる南口の封鎖解除は1990年7月1日まで待つことになったが、同日にU6線とU8線の全ての駅が検問なしに駅業務を再開し、この日東ベルリンおよび東ドイツは西ドイツと完全に交通がつながって二国間の全ての国境検問が廃止された。 1990年7月2日、オラーニエンブルガー・シュトラーセ駅が、Sバーン南北線において再開通した最初の幽霊駅となった。1990年9月1日、ウンター・デン・リンデン駅とノルト駅が再編成事業によって再開通した。1990年12月12日、ボルンホルマー・シュトラーセ駅が西ベルリン車両に対して門戸を開いた。東ベルリン専用だった2番ホームも1991年8月5日には相互に行き来が可能になった。一番後に再開通した幽霊駅はポツダマー・プラッツ駅で、1992年3月3日の南北地下線トンネル全体の拡張復旧に際してのことである。 つづく数年間にベルリン市とドイツ政府は、市内のS・ U両バーン網の再編成と再合一に多大な努力をした。1995年のU1線ヴァルシャウアー・シュトラーセ駅の業務再開をもって、Uバーン網は東西分断前の水準を取り戻した。Sバーン網については、ベルリンの壁の余波で依然閉鎖されたままの不開通区画を一部に残したものの、2002年の環状線再開通でもって完成の予備段階に達した。これらの閉鎖区画の再開通はまだ実現していない。 再開した幽霊駅の一覧この一覧は、東ベルリン区域にあって、西ベルリンの列車が停車せず通過していた駅についてのみまとめている。下記のほか、分断期に運行が行なわれなかった区間に、閉鎖していた駅が東西両方に存在する。 仮検問所は、1990年7月1日より前に再開した駅に設置されていた。この日以降、東西ドイツ再統一を控えた「通貨・経済・社会同盟の創設に関する国家条約」の発効により設置の必要はなくなった。
ベルリン以外のドイツの幽霊駅
世界の幽霊駅
オーストラリアオーストリアカナダ中国
フランス→「メトロ (パリ) § 廃駅」も参照
日本→「休止駅」も参照
この他、厳密には幽霊駅ではないが似たような例に以下のものがある。
ノルウェーシンガポールスペインスウェーデンウクライナイギリスアメリカ
韓国かつてはソウル都市鉄道5号線(現:ソウル交通公社5号線)の麻谷駅が、1996年の路線開業から2008年まで、ソウル市メトロ9号線の麻谷ナル駅が、2009年の路線開業から2014年まで、釜山都市鉄道2号線の甑山駅(地上)が、2008年の路線開業から2015年まで、駅周辺地域の未開発により利用客が見込めなかったことから、駅施設は完成していながら営業せず、列車がすべて通過していたが、開発の進展により駅が開業した。また、ソウル都市鉄道6号線(現:ソウル交通公社6号線)の梨泰院・漢江鎮・ポティゴゲ・薬水の4駅は、工事を担当していた業者の倒産により工事が遅延し、2000年12月15日の路線開業時に開業できず、3カ月間列車が通過していた。 なお、幽霊駅ではないものの、ソウル交通公社2号線新設洞駅には、計画変更により使用されなくなったホームが現存し、他にも論峴駅(2022年新盆唐線用ホームに転用)、新堂駅、永登浦市場駅、新豊駅には、1990年代に計画されたソウル地下鉄3期路線(10 - 12号線)用に施設が建設されたものの、その後計画自体が中止されたため、使用されずに放置されている。 脚注参考文献
以上のドイツ語文献は、翻訳参考元のドイツ語版当該記事が挙げていたものであり、日本語版執筆にあたって直接参照はしておりません。 関連項目外部リンク
|