幸徳井家
幸徳井家(こうとくいけ / かでいけ)は、南都奈良を根拠地とした陰陽道を家業とする地下家の官人。安倍氏の末裔であるが、初代幸徳井友幸が賀茂氏の養子ととなったために、賀茂氏系とされるのが一般的である。 →「賀茂朝臣氏」および「勘解由小路家 (賀茂氏)」も参照
概要明徳2年(1391年)に安倍氏庶流の安倍友氏の次男として生まれた友徳は、初め刑部卿兼陰陽助の賀茂定弘より陰陽道を学んでいたが、応永26年(1419年)にその養子となり賀茂友幸と名乗った。友幸は応永30年(1423年)10月に従五位下に叙任され、享徳2年(1454年)に従三位、寛正4年(1463年)には正三位となるが、後に奈良郊外の高畠幸村(たかはたさいわいむら)の幸徳井[注 1]という井戸のある地に居宅を構えて興福寺大乗院門跡尋尊に仕えた。友幸は尋尊の元で陰陽道や暦道のことのみならず、政治顧問的な役目を果たしていたとされ、その居住地より「幸徳井」の家名を号した。文明5年(1473年)に友幸が83歳で薨去した後も、子の友重も尋尊に仕えてその推挙で正三位まで昇り、次の友延も従三位に昇った。以後、幸徳井家は興福寺と事実上の主従関係を結び、その力を背景に南都社寺への日時勘申を初め、陰陽師・声聞師の監督など南都に関する陰陽道・暦道に関する全てを取り仕切り、政情不安で機能停止した京都の陰陽寮に代わって幸徳井家による独自の暦(幸徳井暦)が編纂されたこともあった。 江戸時代に入って当時の安倍氏当主であった土御門泰重が度々の不手際による失意から、陰陽寮を辞することを表明するが、かつて安倍氏と並ぶ陰陽道の元締とされていた賀茂氏宗家であった勘解由小路家は断絶していた[注 2]ため、元和4年(1618年)に幸徳井家9代目にあたる幸徳井友景[注 3]が同家では初の陰陽頭に任ぜられた[1]。以後、友種・友傳と幸徳井家出身の陰陽頭が続くが、後に泰重がこれを後悔して幸徳井家より陰陽頭の地位を取り戻そうとした。だが、泰重が失った信頼が回復できずに土御門家は不遇の時代を迎える。 だが、寛文10年(1670年)に土御門泰福が陰陽頭の地位のみならず、全国の陰陽師・声聞師の支配権を主張して陰陽頭だった友傳に相論を仕掛けた。友傳は興福寺の支援を受けてこれに抵抗するが、天和2年(1682年)に友傳が35歳で急死してしまう。後継者の友信は幼少であるために、土御門泰福が後任の陰陽頭に任じられ、翌年には諸国の陰陽師を支配・免許の権限が与えられて、幸徳井家が持っていた南都陰陽師の支配権も没収した。更に元禄2年(1699年)には友信に圧力をかけて、土御門家のみを陰陽道宗家として幸徳井家はその配下となることを誓約させられた。以後、幸徳井家は代々陰陽助として土御門家の指示のもとに暦注のみを管轄した(ただし、宝暦4年(1754年)に土御門家内部の混乱から幸徳井保暠が陰陽頭に任命された例外がある)。ただし、土御門家といえども幸徳井家と興福寺などの南都社寺との関係に直接干渉することは出来ず、南都社寺への日時勘申などは引き続き幸徳井家が担当している。 明治維新後、歴代中公卿を6名輩出した実績を根拠に華族への取立てを請願するも、明治政府より却下されている。その後、現代に至るまで消息は不明。 歴代当主
登場作品
脚注注釈出典参考文献
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