賀茂在昌

 
賀茂在昌
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 永正17年(1520年)?
永正16年(1519年)?
死没 慶長4年(1599年8月
官位 従四位下陰陽頭
主君後奈良天皇→)正親町天皇後陽成天皇
織田信長豊臣秀吉(→豊臣秀頼
氏族 賀茂朝臣氏嫡流勘解由小路家
父母 父:勘解由小路在富、母:不明
兄弟 在昌、養子:在種在高
メルショル在信
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賀茂 在昌(かも の あきまさ)[注 1]は、戦国時代から安土桃山時代にかけての公家陰陽師洗礼名マノエル(Manoel)正二位勘解由小路在富の子。官位従四位下陰陽頭

未解明な点

賀茂在昌については史料が少なく、未だ実態が定かになっていない。

勘解由小路在昌

在昌は賀茂朝臣姓勘解由小路家の子息であるが、当主を嗣いだかどうかは定かでない[注 2]。「勘解由小路 在昌(かでのこうじ あきまさ)」と名乗った記録が無いためである[1][注 3]。一方、在昌の息子である可能性がある在信[注 4]は、「勘解由小路在信」という名で史料に残っている[5][6]

キリシタン陰陽師

在昌の最も特筆すべき点として、「キリシタンになった陰陽師」として知られる[2][7][8]。しかし、キリシタン文献に記された「Manoel Aqui Marza」[9]・「Aquimasadono」[10]といった人物と、日本側の史料に残る「賀茂在昌」が同一人物であるという確証は得られていない[1]。ただ、時代的に符合し、ルイス・フロイスの書き遺した『日本史』に「日本で最高の天文学者(Astrolog)の一人で公家でありはなはだ高貴なAquimasadonoという人物」という記述がある[10][11][12]こと、これに該当し「アキマサ」という名前である人物は同時代に他に確認されていない[注 5]ことから、同一人物である可能性は否定できない[17]。当記事では、「Manoel Aqui Marza」・「Aquimasadono」と「賀茂在昌」が同一人物であるという仮定に基づいて記す。

経歴

生まれ育ち

在昌は、家祖賀茂忠行賀茂保憲以来、朝廷陰陽寮にて陰陽道ことに暦道を司ってきた陰陽道宗家の一翼・賀茂朝臣氏嫡流勘解由小路家の当主・勘解由小路在富の子として生まれた。『歴名土代[18]には、「故在富卿子実」[注 6]と記されており、何某かからの養子である可能性も指摘されている[19][注 7]

没年と享年から逆算すると、 永正17年(1520年)あるいは永正16年(1519年)に生まれたことになる[21]。『耶蘇会士日本通信』の記述によると、山口の生まれという[11][22]。山口には勘解由小路家の所領があり、当時山口を治めていた戦国大名大内氏と勘解由小路家は密接な関わりがあった[21]

在富は、弟・勘解由小路在康の子であり甥にあたる在種を養子としたが、天文20年(1551年3月14日[注 8]、21歳にて在種は在富の手によって「横死」させられた[24][25][26][注 9]。かくして在昌は、在富の唯一の息子となった。

キリシタンとして

在昌は、永禄2年12月ユリウス暦1560年1月)、ガスパル・ヴィレラらの上洛の折に逗留地を訪れ、伴天連達の天文学の知識に感銘を受けたことをきっかけとして、洗礼を受けキリシタンとなった[10][11]

さらに永禄7年(1564年)末には、妻子を連れて京を出奔して、豊後府内に下向した。豊後に向かう道中、伊予国堀江に立ち寄った際、在昌の妻は産気付き、永禄7年12月6日ユリウス暦1565年1月3日)、男児を出産[28][29]。この時の子が、のちの勘解由小路在信ではないかと考えられる[30]。折しもこの時、ルイス・フロイスとルイス・デ・アルメイダの両者が行き違いに豊後からに向かう道中であり[31]、在昌と出会い、部下を送って産後容態を悪くした在昌の妻を介抱した[28][32]。在昌は信心の印として、11歳の息子メルショル(Melchior)を「神の奉仕に捧げる」すなわち修道士とする決意をした[28][29][33]。メルショルは在昌の帰洛後も九州に留まり、天正8年(1580年)にイルマン(修道助祭)に叙階されたが、天正13年(1585年)にはイエズス会を退会し、その3~4ヵ月後に天草で何者かによって暗殺された[34][注 10]

嗣子問題

在昌が出奔した翌年の永禄8年(1565年)、在富は後継者が不在のまま、8月10日死去。嗣子がないため、土御門有春の四男・福寿丸(1553年 - 1575年・13歳)を勘解由小路在高として養子に入れて相続した[35][36]が、在高は天正3年(1575年)に23歳で夭折してしまう。

これを受けて同年、有春の嗣子・有脩の子である土御門久脩が16歳で勘解由小路在綱と改姓改名して、勘解由小路家を嗣ぐことになった[37]

しかしそれも束の間、天正5年(1577年1月2日、久脩(在綱)の父・土御門有脩が死亡してしまう。これに伴い、唯一の嫡子である久脩改め在綱は、同年3月26日、土御門久脩へと復姓復名し、土御門家当主を嗣いだ。これは、在昌が京に呼び戻され、勘解由小路家を嗣ぐことになったためと思われる[19]。同年7月12日、在昌は従五位下[注 11]に叙位されている[18][38]

帰洛後の活動

御湯殿上日記』天正8年(1580年1月24日の記事に「あきまさ」という記述が登場するのが、日本側の一次史料における在昌の初出である。同2月17日の記事には、「おんようのかみあきまさ」と記述があることから、遅くともこの時点までに在昌は陰陽頭に叙任されていたことが分かる[39]

天正9年(1581年10月19日従五位上に叙せられる[38][40]

同年、いわゆる天正十年改暦問題が起こり、翌天正10年(1582年1月29日、在昌と土御門久脩は織田信長の居城・安土城に召され、共に京暦側の代表者として三島暦の推進者と討論した[41][42]

天正18年(1590年4月方広寺大仏殿(京の大仏)の着工に先立つ地鎮祭を斎行。時の天下人・豊臣秀吉に重用されていたことがうかがえる[43]

慶長4年(1599年3月26日には従四位下に叙せられる[44][38]。それからほどなく、慶長4年(1599年8月、『歴名土代』によると80歳[44][注 12]、『系図纂要』によると81歳にて没した[21][注 13]

没後

在昌の帰洛によって、勘解由小路家の相続問題は一旦は解消したと思われたが、江戸時代初期、在昌の息子と思われる勘解由小路在信[6]の代に至って消息不明となり、賀茂氏勘解由小路家は完全に断絶した。在信に関する記録としては、在昌の記録が途絶えるのと前後して慶長3年(1598年3月から『御湯殿上日記』に記述がみられ、慶長10年(1605年10月11日、「勘解由小路修理大夫在信」という人物がにいるという『慶長日件録』の記述[5]が最後である[6]

在信の記録が消えた時期と入れ替わるかのように、賀茂氏庶流[注 14]奈良を拠点とする幸徳井家が勘解由小路家に代わって暦道の家柄として台頭し、元和4年(1618年)には幸徳井友景[注 15]が同家では初の陰陽頭に任ぜられた[46]

在昌と、その息子に当たると思われる勘解由小路在信については不明な点が多く、在昌の父・在富の代で賀茂氏勘解由小路家は実質絶家したものと見なされることが多い[47]

登場作品

ゲーム
  • 鬼武者Soul 配信:2012年10月19日~2017年3月30日 - 「勘解由小路在昌」(かでのこうじ ありまさ)、「賀茂在政」(かもの ありまさ)[注 16]
  • 戦国アスカZERO”. 2019年10月6日閲覧。 配信:2015年11月30日~ - 「[陰陽師]賀茂在昌」
小説
演劇

官歴

歴名土代』による。

脚注

注釈

  1. ^ 史料によっては「有昌」、「有政」などと(「ありまさ」と読めるような)誤記がされている[1]が、『永禄元年記』によると、勘解由小路家通字「在」は「あき」と読むのが正しいとされる[2]
  2. ^ 林淳は、勘解由小路家の後継者になることはなかったと述べている[3]
  3. ^ この時代、本姓(勘解由小路家の場合、賀茂朝臣が本姓となる)を名乗るケースは多いのであるが、「勘解由小路在昌」とする史料が現状一切発見されていないのは不可解である。
  4. ^ 村山修一は、在信は在昌の息子であると述べている[4]
  5. ^ 勘解由小路在宗の別名が「在政」である[13]ため、これに比定する説もある[14]が、海老沢有道は、年代が合わないとして否定している[15]。また、勘解由小路在理に比定する説もあるが、海老沢はこれもまた年代が合わない上に、「在理」を「あきまさ」と主む明証がないとして否定している[16]
  6. ^ 「実子」ではなく「子実」と記されている点に注意。通常、「○○子 実△△」と書いて、「実は△△の子であり○○の養子になった」という旨を記す形式である。
  7. ^ 木村純子は義子であるとして記している[20]
  8. ^ 歴名土代』には「同(天文)廿三十四横死」とあるため、天文23年(1554年10月4日没と読む説もある[3][23]が、『系図纂要』には「同廿年三ノ十四横死」と記されている。
  9. ^ 尊卑分脈』にある「父卿殺害之」という記述[25][27]の「父」とは、養父在富ではなく、実父在康を指す可能性も指摘されている[23]
  10. ^ フロイス『日本史』によると、口之津で病死とある[28]
  11. ^ 律令官位相当では陰陽頭の位階に相当する。
  12. ^ 『歴名土代』でも、『群書類従』所載(当該箇所)には81歳没とある。
  13. ^ 系図纂要』が江戸時代末期の書であるのに対して、『歴名土代[44]は、同時代の人物で父・在富とも親交があった山科言継[45]およびその嗣子・言経の編であり、史料価値が格段に高い[21]
  14. ^ 男系では元来安倍氏の系譜。
  15. ^ 柳生宗厳の甥であり、幸徳井家の養子となった。『幸徳井世系考訂本』によると、安井永順の子で柳生宗厳の養子とある。
  16. ^ 本作では別人物で兄弟という設定となっている[48]

出典

  1. ^ a b c 但馬荒人[信頼性要検証]
  2. ^ a b 海老沢 1965, p. 43.
  3. ^ a b 林 2002, p. 172.
  4. ^ 村山 2001, p. 292.
  5. ^ a b 慶長日件録』, p. 230.
  6. ^ a b c 但馬荒人 - 勘解由小路在信:第二の息子[信頼性要検証]
  7. ^ 西蓮寺 1996.
  8. ^ 斎藤 2014, pp. 121f.
  9. ^ 『日本イエズス会離脱者名簿』, 海老沢 1965, p. 39.
  10. ^ a b c フロイス『日本史』, pp. 118f.
  11. ^ a b c 海老沢 1965, p. 38.
  12. ^ 木場 1985, p. 407.(1993, p. 175.)
  13. ^ 公卿類別譜
  14. ^ 神田 1962.
  15. ^ 海老沢 1965, p. 42.
  16. ^ 海老沢 1965, p. 44.
  17. ^ 海老沢 1965.
  18. ^ a b 歴名土代』, p. 150.
  19. ^ a b 但馬荒人 - 賀茂在昌[信頼性要検証]
  20. ^ 木村 2012, p. 197.
  21. ^ a b c d 但馬荒人 - 賀茂在昌の生まれについて[信頼性要検証]
  22. ^ 耶蘇会士日本通信』, pp. 10f.
  23. ^ a b 村山 1981, pp. 363f.
  24. ^ 歴名土代』, p. 105.
  25. ^ a b 木場 1985, p. 398.(1993, p. 166.)
  26. ^ 但馬荒人 - 勘解由小路在種:不遇の養子[信頼性要検証]
  27. ^ 尊卑分脈』, p. 48.
  28. ^ a b c d フロイス『日本史』, pp. 214f.
  29. ^ a b 海老沢 1965, pp. 39f.
  30. ^ 但馬荒人 - 記述の鬼、ルイス・フロイス[信頼性要検証]
  31. ^ 堺から日本へ! 世界へ!. “キリシタン受容の構図-「茶の湯」文化の発見”. 2019年10月6日閲覧。
  32. ^ 但馬荒人 - その男アルメイダ[信頼性要検証]
  33. ^ 但馬荒人 - メルショル:第一の息子[信頼性要検証]
  34. ^ 海老沢 1965, p. 40.
  35. ^ 木場 1985, pp. 401-406.(1993, pp. 169-174.)
  36. ^ 但馬荒人 - 勘解由小路在高[信頼性要検証]
  37. ^ 但馬荒人 - 勘解由小路在綱[信頼性要検証]
  38. ^ a b c 海老沢 1965, p. 45.
  39. ^ 但馬荒人 - 御湯殿上日記[信頼性要検証]
  40. ^ 歴名土代』, p. 111.
  41. ^ 谷口 2007, pp. 11–14.
  42. ^ 但馬荒人 - 天正十年改暦問題[信頼性要検証]
  43. ^ 但馬荒人 - 在昌と秀吉[信頼性要検証]
  44. ^ a b c 歴名土代』, p. 59.
  45. ^ 但馬荒人 - 補遺2:山科言継[信頼性要検証]
  46. ^ 幸徳井世系考訂本
  47. ^ 木場 1985, p. 414.(1993, p. 183.)
  48. ^ “ナインストーリーズ 森橋ビンゴ氏へのインタビューを掲載。「鬼武者Soul」のシナリオ執筆の裏話や,カプコン在籍時のエピソードを聞いてきた”. 4Gamer.net. (2013年6月28日). https://www.4gamer.net/games/150/G015000/20130628015/ 2019年10月15日閲覧。 
  49. ^ 「錆色のアーマ」 -繋ぐ-”. 2.5ジゲン!!. 2021年6月3日閲覧。
  50. ^ 玉城裕規; 丘山晴己(インタビュアー:嶋田真己)「【2.5次元】玉城裕規&丘山晴己インタビュー “逆2.5次元”作品「錆色のアーマ」 −繋ぐ−で「キャラクターを自分の色に染めていきたい」」『エンタメOVO』、共同通信社、2019年5月2日https://tvfan.kyodo.co.jp/feature-interview/interview/25d-interview/1186758/2023年5月20日閲覧 

参考文献

史料

  • ルイス・フロイス 著、松田毅一; 川崎桃太 訳『日本史』 第3《五畿内篇》、中央公論社、1978年。 
  • ガスパル・ヴィレラ 著、村上直次郎 訳『耶蘇会士日本通信』 上、雄松堂書店、1966年。 
  • 山科言継; 山科言経 著、湯川敏治 編『歴名土代』続群書類従完成会、1996年。ISBN 4797102691 
(所載:オープンアクセス塙保己一 編『群書類従』 510巻https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2559257 

参照図書

(所載:海老沢有道『増訂 切支丹史の研究』新人物往来社〈日本宗教史名著叢書〉、1971年、296-309頁。 
  • 木場明志 著「暦道賀茂家断絶の事―永禄~文禄期 宮廷陰陽道の動向」、北西弘先生還暦記念会 編『中世社会と一向一揆』吉川弘文館、1985年、393-422頁。ISBN 4642026126 
(所載:村山修一他 編『陰陽道叢書』 第2《中世》、名著出版、1993年、161-190頁。ISBN 4626017983 
(所載:林淳『近世陰陽道の研究』吉川弘文館、2005年、27-51頁。ISBN 4642034072 

関連項目