平時兼

 
平 時兼
時代 平安時代-鎌倉時代
生誕 仁安3年(1168年[1]
死没 建長元年5月17日1249年7月6日[1][2]
官位 従三位右京大夫[1][2]
主君 高倉天皇安徳天皇近衛家実後堀河天皇四条天皇後嵯峨天皇後深草天皇
氏族 平氏
父母 平信国平時忠[1][2]
兼親葉室光俊[3][注 1]
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平 時兼(たいら の ときかね)は、平安時代後期から鎌倉時代前期にかけての貴族公卿少納言平信国の子で、権大納言平時忠の養子となった[1]

生涯

治承4年(1180年叙爵[2]。同年、養父時忠が知行国主となった伊豆国国司伊豆守となった[1][2][4]。時兼の目代として国衙にあった山木兼隆は同年8月の源頼朝挙兵の際に討たれている。平氏政権衰亡後は近衛家に仕え[5]承元4年(1210年従五位上に進む。承久の乱後の承久3年(1221年)に日向守となり、嘉禄元年(1225年勘解由次官を兼ねるが、翌嘉禄2年(1226年)病と称して籠居し[5]日向守を子の兼親に譲る[2]安貞元年(1228年左少弁となり、同年には従四位に進む。貞永2年(1233年従三位に昇進して公卿に列するものの、怨恨があり出仕は拒否している。暦仁2年(1239年)には右京大夫となる[1][2]仁治3年(1243年吉田為経姉小路顕朝とともに四条天皇の葬礼奉行を務める[6]。同年から一時三河権守を兼ねた。建長元年(1249年)出家、死去した[1][2]

官歴

官暦は『公卿補任』による[2]

系譜

  • 父:平信国
  • 母:不詳
  • 養父:平時忠(1130?-1189)
  • 妻:不詳

脚注

注釈

出典

参考文献

  • 上田正昭; 西澤潤一; 平山郁夫 ほか 編「平時兼」『日本人名大辞典』講談社、2001年。ISBN 9784062108003 
  • 東京大学史料編纂所 編『大日本史料 第五編』 14巻、東京大学出版会、1982年。 
  • 東京大学史料編纂所 編『大日本史料 第五編』 30巻、東京大学出版会、1997年。 
  • 梶原正昭; 大津雄一; 野中哲照 編『曾我物語小学館〈新編日本古典文学全集〉、2002年。ISBN 4096580538