平 時兼(たいら の ときかね)は、平安時代後期から鎌倉時代前期にかけての貴族、公卿。少納言平信国の子で、権大納言平時忠の養子となった。
生涯
治承4年(1180年)叙爵。同年、養父時忠が知行国主となった伊豆国の国司伊豆守となった。時兼の目代として国衙にあった山木兼隆は同年8月の源頼朝挙兵の際に討たれている。平氏政権衰亡後は近衛家に仕え、承元4年(1210年)従五位上に進む。承久の乱後の承久3年(1221年)に日向守となり、嘉禄元年(1225年)勘解由次官を兼ねるが、翌嘉禄2年(1226年)病と称して籠居し日向守を子の兼親に譲る。安貞元年(1228年)左少弁となり、同年には従四位に進む。貞永2年(1233年)従三位に昇進して公卿に列するものの、怨恨があり出仕は拒否している。暦仁2年(1239年)には右京大夫となる。仁治3年(1243年)吉田為経・姉小路顕朝とともに四条天皇の葬礼奉行を務める。同年から一時三河権守を兼ねた。建長元年(1249年)出家、死去した。
官歴
官暦は『公卿補任』による。
系譜
- 父:平信国
- 母:不詳
- 養父:平時忠(1130?-1189)
- 妻:不詳
脚注
注釈
出典
参考文献